雷電山〜唐沢山

*赤城山から、あるいは鳴神山や仙人岳から桐生市街の方角を眺めると、アンテナを立てた茶臼山を中心に八王子丘陵は、町並みの中に浮かぶちんまりとまとまりのいい山塊です。けれどもいざ入ってみると尾根筋は複雑に岐れ、縦横無尽の谷をもつなかなか深い山塊だとわかります。山並みの南北に肥沃な扇状地を持ち、渡良瀬川の水運や街道、賀茂神社古墳や式内社の賀茂神社、あるいは新田氏の金山城の砦があり、昔々から人々が住み着き暮らしていた、この国の原風景を彷彿とさせる里山でもあります。
天気予報が嬉しくはずれて、2月とは思えない暖かい日、いつもいつもお世話になりっ放しのあにねこさんの後について大縦走(!)をして来ました。
今回も申し訳ない、長文です。

雷電山〜黒石山
出発地は西、荒神山からの主脈を少し離れた雷電山を選びます。住宅地の裏の畑の中、山裾に向かって小道を辿り雷電神社の表参道へ。ここから桐生市街を振り返れば、赤城山から鳴神・根本に続く山並み、重なる仙人岳から小俣・足利への山並みが青々と晴れ始めた空に長い稜線を描き、筆者はこの町の北に狭まるあたりに住んでおりますので、同じ市とは思えない広々としたながめ。ひとの育つ風景がもしその性格に影響を与えるものならば、こんな小さな町でも北と南ではいくらか気質に違いが出るのではないかと思えるほど、日常見ている景色とは肌合いが違います。

参道の入口の石柱を過ぎて、真直ぐな登りを上がりきれば、開けた場所の正面に三体の神さま、入ってすぐに大きめの石祠があるご神域。雷電神社は長野・栃木・群馬に突出して多いとか。たしかに桐生の雷電神社と雷電山は数えきれないほどあります。
まだPCも持たない二昔ほど前、ここのお祭りの日に裏参道で楽しそうに神さまを目指す少女たちに出会ったことがあり、もうあの子たちもいいおかあさんかと思うと、なんだか懐かしいような、もの哀しいような。
神域を後に稜線の踏み跡を登れば、道は篠竹に覆われて下からは野球少年の声が追いかけて来て、行く手には主脈の稜線が近づき、しっかりとした道ではありますが、竹の生育に負けつつある山道を時々掻き分けながら進みます。
飛び出たところが桐生市基準点No.27、242mの小ピーク。

少し西側に下って黒石峠に行き着けば、かつてはせいせいと広がった薮塚方面は、育って来た木がもやもやと枝を伸ばし、20年近くの間時々ここを楽しんできた者には少し淋しいような気がしますが、やはり今でも昔ひとが行き交ったことが想像できる峠らしい峠。
十文字に道が重なるところから少し荒神山寄りの笹の中に石が集まる小さなピーク、薮塚上原の方々がお祀りした山神様に久々にご挨拶して、これは小さな石祠ですが薮塚側に登って来る道があり、燈籠の跡かしら台座のように見える石柱があります。側面の文字は薄れて判読できないのを残念がりながら、主稜線を戻り長い散策の始まりです。

黒石山〜八王子山
No.27の基準点からは右手に杉林、左手には雑木の緩やかな登りです。茶臼山は雑木の向うに特徴ある形を見せていますが、これから辿る山々はいまいち特定しきれない。東西にくねくね続く主稜から南北への支尾根が向きを少しずつ違えながら延びており、地図上の感覚と実際の景色はなかなか一致しません。それでも左右どちらにも人家が見下ろせる里山らしい里山、梢では小さな鳥特有の澄んだ可愛い声が飛び交い、杉と笹の葉以外はまだ茶色の勝った景色の中に支尾根や谷筋にいくつもの案内看板が続いて、こちら西側のハイキングコースは安心して歩けるしっかりした道です。

緩やかに登って姥沢の頭でひと休み。何の木なのでしょう、ベンチの上の大木は常緑樹とは思えない柔らかな緑の葉を茂らせ、仙人岳の眺めがいい。主峰茶臼山は今回は見送って、そのまま籾山峠方向に歩きこの丘陵の名になっている八王子山へ。
古井戸の看板がある浅い水たまりの所を左へ入ると籠山千日満行所の小さな石塔。
文化十四年(1817)と刻まれ、側面に和歌があるのですが達筆で読めずにずっと気になっていたのですが、『山田郡誌』によれば「千はやふる神も願のあるものを 人の願ひに逢ふそうれしき」だそうで、ふ〜む。
これを過ぎればすぐに立派な石柱があります。尖った頂のすぐ下に月日と「八王子」と彫られこちらは元禄十六年(1703)、「時は元禄15年」の忠臣蔵の翌年です。基部を入れれば2mを越える大きなもので、裏側に「空風火水地」とあるのでこれは五輪塔、八王子とは牛頭天王のお子さま神のことらしく、神仏習合の時代ならではの石柱です。麓の八王子神社の奥宮とも言われ、後にはかつては祠があったのかしら台座が残っています。
山そのものは笹茫々ののてっとした広い頂上、視界もいまひとつで、ものの本では八王子山脈ともいわれているようにこの山塊の本来の盟主なわりには、信仰心が廃れてしまった現在では全く地味な山です。

八王子山〜籾山峠
少しの降下で姥沢峠。立派な庚申塔にご挨拶して雑木の中をわしわし登ってちょっと稜線を外れた所、四基の石祠がある場所にあにねこさんにご案内いただきました。四つと言っても右側二つは屋根だけが地面に貼りついていて、石尊宮だとは判りましたが、年代は全くわかりません。お賽銭がけっこうたくさんあげられていて、なかなかお金持ちの神さま、小さな個人的な粘土細工らしい新品のお地蔵さまもそのお裾分けを頂戴していました。

この先少し南に膨らんだ尾根がきれいに切り払われていて榛名や浅間山、荒船山など西上州の山々が一望できる場所に、簡単なテーブルとイスのセットが設けられています。どなたが設置して下さったのか、見える山の山名板があり、ありがたい。ちょっとプラスチック製のテーブルとイスが頼りないけど、ここまで運んでくださったことを思えば贅沢はいいません。今日は雲が多かったけど晴れればなかなかのビューポイントです。
そういえば看板も新しいしっかりした木製のものが要所要所につけられていて、根元山にもきれいな275m峰と書かれた看板がついています。昨年当会の間違った看板を撤去してから新看板を用意していないので、可哀想に名前が忘れられ、ボールペンで小さくクエスチョンマーク付きで名が記されています。ごめんね根元山。
八王子丘陵はファンが多く、しかもみなさん優しくて黙々とベンチを作ってくださったり、看板や標識をつけてくださってて、たまに訪れるハイカーは感謝しなくちゃなりません。

根元山からの急降下で籾山峠へ到着。舗装されている旧道の登り口にも丁寧に書き込まれた新しい木の手作りの案内板があり、ありがたいことです。
ここまでが当HPの八王子丘陵の西部縦走、歩きやすい広々した尾根で、桐生側にも薮塚側にも手入れされたコースが多く、籾山峠の採石場だけがちょいと残念だけど安心して歩ける素敵な尾根筋です。

籾山峠〜日向山
交通量の多い舗装道を太田市側に下って行くと、左手に木でできた「登山口」と書かれた小さな可愛い看板が。ちょっと入ると木立には先の手作り案内板の東側バージョンも掛かっています。もさもさとした急登、しかも未だに古タイヤや缶やビン、あろうことか赤く塗られた小屋まで捨てられた、このコース一番のヤな道です。所々ロープを伝って、左手の採石場からの騒音や埃っぽい空気にも耐えなければなりません。かつて緩やかに共存していた自然との生活は、いまや削り取ったり汚したり。せち辛く淋しい人類のどん詰まりのような気がします。

それでも最初の245m峰を過ぎれば一気に深山幽谷の気配がしてきます。再び鳥はさえずりはじめ、左右には雑木の林が続き、時々混じるツツジの中にはこの暖かさのせいでしょうか、既に蕾を綻ばせているものもあり、そんなに急いで咲いたらあとが苦労の花ではないかと切なく声などかけたくなります。
やはりどなたかが整理してくださったのか、煩いほどあった色とりどりの紐が木に結ばれていたのが綺麗になって、桐生倶楽部歩く会の古い看板と新しい読みやすい木の看板が道案内してくれます。

落葉の積もる斜面に黄色いテープがちんまりと神籠石への上からのルートの始まりを示していて、結構な急降下でたぶんあの辺と思えるあたりは緑の葉が茂る大杉が幾本かぴょんと突出しています。本日はこれを見送り、天王山への標識も見送って、いわゆる偽菅塩峠を越えます。
このルートで目立つのは「唐沢山一等三角(肉のような旧字)点(點の下に四つ足つきの旧字)へ」の看板。やはり新しい看板で唐沢山ファンの方かしら、いくつも掛かっていて、旧字の見慣れない字体が気になってついつい唐沢山へと誘惑されてしまいます。

峠から少し登り返して右の雑木の中に歩き易そうな分岐が出てきたら辿ってみましょう。常緑樹のこんもりした日向山二柱神社の真裏に着きます。前に来たときには一升瓶が散らばっていて、随分飲兵衛の神さまだと思ったのですが、禁酒されてるのか今日は一本も瓶は見当たりません。あるいはこの東側ルート最近大掃除をしたのかしら。二柱神社という名前通り石祠が二つ仲良く並んでいて、山中にしては立派な鳥居(昭和のものだそうです)があり、薮塚の方を向いているので菅塩の方々の崇敬を集めていたのでしょう。何の神さまか不明ですが、この仲良しの感じは縁結びあたりで売り出せばどうだろう。急そうに見える参道を下れば菅塩沼のあたりに降りられそうです。

日向山〜唐沢山
主脈に戻り唐沢山を目指します。道にはいくらか落葉が多くなり松の木も増えてきます。相変わらず旧字で唐沢山を勧める看板が続き、けれどもその山はまだ見えない。ちょっと急に下ればかくんと大きく掘り割られた鞍部、こちらが本物の菅塩峠です。昭和10年に切り開かれたと聞きますが、もっと古色蒼然として峠はかくあるべきというような気になります。鞍部の向うに広がる空、この景色は峠特有の心弾むものです。
峠の唐沢山方向の斜面には龍の髭がもこもこといくつもいくつも塊を広げ、濃い紫の実が緑の葉の陰に覗く。落ちている実を庭に植えるべく採取します。うまく根付けば嬉しいのだけど。

西部の縦走路に比べれば歩くひとが少ないのか道はふかふか柔らかい。236m峰を過ぎてアップダウンを繰り返すうち左右にはだんだん篠竹が目立ちだし、長身のあにねこさんが見えなくなるほどですが、それでも倒木だらけだった時から比べれば随分と歩き易くなったのだとか。道は細くもさついているとは言っても判りやすく、迷う所はありません。

のたのたと続く登りを登り切れば唐沢山山頂、一等三角点がお出迎えですが、あんなにここを推奨していた看板の主は遠慮深い方なのか、山頂看板は昔からある太田ハイキングクラブのものと、あっさりと名と標高が記された山歩きの好きな方のものふたつだけ。朱の残る立派な屋根の石祠がひとつぽつりとある落ち着いた広々した山頂です。残念ながら展望には恵まれませんが、きゃぴきゃぴしたところがない、一等三角点(旧字)にふさわしい静かなてっぺんだと感心していたら、見つけてしまいました、井上昌子。太田ハイキングクラブの看板の裏に、少しは歳を重ねて落ち着いたのか名前だけ残していました。やーね。

道を辿り左手の分岐を過ぎて直進すれば平たい岩場に古い梵天が倒れており、その先の岩の間に石尊宮があります。明治四年と読みましたが、違ってるかな。とりでん様と呼ばれているそうなので案外もっと古いのかもしれません。

戻って先ほどの分岐を東澤寺に下ります。これは道と呼ぶには少し苦しいものがあり、踏み跡を辿ると言うのが正しいかも。ちょっと急降下を続けると下に真っ赤な鳥居が見えてきます。ペンキ塗立ての稲荷神社。3月の第一週か第二週の日曜日にお祭りがあるそうで、それに向けての化粧直しらしく、このお祭りは広沢7丁目総出のかなり賑やかなものだそうです。立派な阿吽の狛狐もいて、ここからの九十九折れの参道の東には見事なカタクリの群生地もあり、これからお勧めのスポットです。
降り着いた東澤寺は歴史のある古いお寺で、山門前には古い形の庚申塔もあり、墓地の裏の山肌には無縁になった墓石なのでしょう、古い年号の読める如意輪観音や優しい顔の仏さまが並び、その微笑みがもう土に埋まり始めていて、切ないような哀しいようなそれでも落ち着いた不思議な景観をつくって、梅はもう満開です。

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