もう一つの八王子山解決編
 代表幹事が書いた、やまの町 桐生の茶臼山(八王子丘陵の縦走)の項で、茶臼山の南にある八王子山の他にもう一つ八王子山があるというくだりがあった。“姥沢峠から進むと右手に古井戸跡の標識があります。この奥に木に付けられた八王子山の山名標があります。ふもとの八王子神社との関連を考えると、こちらの方が本家八王子山のような気がするのですが。でもピークではないような。2つあっても全然問題ないのですが、紛らわしくないこともない。茶臼山の北の砦跡ともいわれているそうです。”例によって、軽い。二つあったら問題だろうとツッコミたくなる。

 この件で、桐生山野研究会のhisiyamaさんから、昭和11年毛野時報の11号に関連記事があるというご教示があり、記事のコピーもいただいた。
新井信示氏の「八王子山脈縦走記 好箇のハイキングコース」という紀行文で代表幹事が本家と書いた方が本物であったという記述があった。怪我の巧妙である。以下その部分を紹介する。原文は旧仮名遣いだが現代仮名遣いに改め、漢字も改めている。( )内も筆者。
 根元山の北に通じている標高二百三十米の峠の路傍に庚申塔が有って(姥沢峠の庚申塚 写真あり)万延元年の年号が刻まれて居る。そこから僅か百米行くと、標高二百六十米の小平地がある。井戸が有り水を湛えて居るが白濁である。白濁はいいとしても木の枝などが乱暴に抛り込んである。心無きわざをしたものであると思った。水面まで約一米位のものであろう。附近に石碑と石宮とがある。篠薮の中に立って居る高さ約一米の方柱石碑の正面に「籠山千日満行所」(写真あり)左側面に「千はやふる神も国のあるものをひとのねがいに逢うぞ嬉しき 読人不知」右側面に「文化十四丁丑天社神道大内蔵之進」とあり、其の傍らなる高さ二米許の方柱石碑の正面には「八王子」と大書して(写真あり)其の下に「周藤次左衛門」右側面に「空風火水地」背面に「元禄十二癸未四月七日」とあった。お陰で此の峰が八王子山であるという事がわかり、かかる霊山に名を取って、此の霊山を含む郡界山脈を八王子山脈というのは尤もであるとうなずかれた。あたりにある二つの石宮の一つはいたましくも破損していた。此処からは谷を隔てて北に近く此の山脈の最高峰茶臼山二百九十三米九の峰が呼べば答えんほどに見えその頂上附近の堡塁状な特殊な地形は私に非常な魅惑を感ぜしめた。その向こうには遥かに殷賑なる桐生市一帯が見えて眺望開豁である。

 現在、八王子山の看板が設置された山に関しての記述はなく、どうやらこちらの山は、別の山名で呼んだ方が良いようだ。幸い桐生市の山でもあるし、東毛少年自然の家で便宜上付けたといわれる「八王子山」にはご遠慮願って「姥沢の頭」などはどうだろう。(以上2006年5月20日)

楚巒山楽会一会員

2006年6月16日追記
加藤一太郎氏の八王子山の歴史散歩という文章の中に八王子山頂(本家の方)に立てられていた八王子山と八王子神社という説明板の記述があった。筆者も以前見たような記憶がある。以下
八王子山は茶臼山の南東五〇〇米に所在して標高二六〇米の山である、戦国時代末期の砦跡であり当時は茶臼山と並んで金山城北の守りとして重要な役目を果しており現在も腰曲輪の跡が残っている。山頂の平地、約六〇〇坪には井戸二ケ所、春夏秋冬水のかれることがない。石宮と石碑があるが石宮は八王子神社の奥社で祭神はスサノオ命の五男三女であり修験道の神として古くからうやまわれてきた。文化年間既に籠堂が建ち多数の修験者が千日行を行なっていた。籠山千日満行所の碑在り。以上
という説明板の記述のあと、八王子山についての記述があり、茶臼山の山頂の記述へとうつる。その間、東毛少年自然の家で付けたといわれる「八王子山」に関する記述は一切ない。オリエンテーリングなどの便宜で歴史ある山の名前を変えたらいかんだろう。え。確かにピークだから名前をつけた方がいいけど、それだったら他の名前にしなさい。東毛少年自然の家さん。

この文章の中に、八王子峠の路傍に庚申塔 荻野氏という記述もあった。どうやら姥沢峠らしい。また宿題ができてしまった。

楚巒山楽会代表幹事

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