介子堂

**浅学の悲しさ、中国の歴史などほとんど知らないのですが、物語はいくつか読んだことがあります。例えば「三国志」「水滸伝」「西遊記」。このどれもが頭領の頼りないこと。劉備にしろ宗江にしろ三蔵法師(これは夏目雅子さんがやったから納得してしまいますが)なんだか頭は固いし、取り立てて強くもないし、つまらない原則主義者だし、案外泣き虫だし、どうもいまいち筆者には魅力がない。それに比べて彼らを取り巻く家来たちの自由奔放、八面六臂、一騎当千、豪華絢爛な大活躍の凄さ、面白さ。頭領は大人(たいじん)だからあれでいいのだと言われても余りに地味過ぎて主人公でありながら印象が薄い。際立つエピソードだらけの日本の主人公たちと違うのは国民性でしょうか。
劉備に付き従った関羽などは主を差し置いて武神・商神として祀られて、日本でもあちこちに関帝廟があり、九州生まれ関西育ちの筆者は長崎でも神戸でも横浜でもその派手やかなお祭りを見たことがあります。

「史記」の春秋時代の晋の文公(重耳)、君主である父親の後継争いの陰謀に巻き込まれ放浪生活を19年も続けた後にやっと晋に戻り名君の誉れ高いひと、この方の放浪に付き従った士のひとりに介子推という棒術の天才がいます。主の危難を救い、文公が飢餓に陥りそうなときは己の腿を切り取って食させたという伝説さえある忠臣で、尚かつ主が晋に凱旋するときには姿を消してしまうというこの世の栄達を全く望まぬ奥ゆかしさ。やはり中国では敬愛されて神として祀られているらしく、4月のそのお祭りには焼死した介子を思って一日火を使わないのだとか。
と長々と乏しい知識をかき集めたのは、桐生・川内にこの介子を祀ったお堂があるらしいと読んだからでした。ブログの方でときどきコメントをやり取りしている冬山枯木さんが探してらして、山を歩くときは1/25,000の地図、家で眺めるのは1/10,000、HPで使うのは国土地理院のもの。けれども昔暮らしていた懐かしい町を見るのはいつもGoogleマップで、確かにこれで見ると川内の山際に「介子堂」の文字が。はて関羽ならともかく介子信仰が日本にあるのだろうか。もし桐生の山里にあるとすればそれは面白いと興味津々。川内を歩くときにはわたしも探してみます、ともうしばらく前に言ったのでした。

バスを降りてお寺の石庭など拝見し、十王堂の延徳二年(1490)だという石幢の輪廻車をくるくる回し、見つかりますようにと手を合わせて通りに戻れば、この季節冬枯れて植林地帯と雑木部分にくっきりと二分された里山の、かなりの高みにちらとお堂の赤い屋根が!その場所目指して登ろうとしても猪や鹿の防護柵に阻まれて試行錯誤、ひとに聞き猫に聞き花に聞いてようやく行き着いたのは個人のお住まいでした。
突然無遠慮にお訪ねしたのに快く庭の奥深くのお堂に案内していただいて、このお堂、三年前に亡くなられたお父さまが昔建てられたものだとか。Googleマップに記載されているのでと言うととても驚かれましたが、屋敷内のお堂としては破格の大きさ、航空写真にはっきり映っておかしくありません。
97歳で亡くなられるまでこのお堂で座禅を組んでいたという建立者は、介子をとても尊敬していたとお聞きして、けれども祭壇に祀ってあるのは仁王を従えた観音菩薩、お堂の扁額「畏無施(せむい)」も観音経の一節で、表札は「芥子堂」。「かいしどう」と呼んでいたそうですが仏典には芥子粒に宇宙を入れて観じる言葉もあり、残念ながら介子推を直接祀ったものではありませんでした。

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お堂の中に入れていただいてその格天井の一枚一枚の、お弟子さんたちと一緒に描かれたという絵の美しい色合いに驚き、永眠される直前まで描いていたという絵画の若々しいタッチに驚き、ご自分で作られた石像の柔らかな丸みに思わず手を伸ばし、このお堂を建立した方の息吹をありありと感じました。山肌に広がるお庭で花を愛で、山羊を飼い、信仰と趣味に悠々とひと世をおくられた方の暖かな存在にすっぽり包まれるような気分。ちなみに介子は「汾水のあたりに住んでいた鬼方と呼ぱれる山岳民族の出」身らしく、中国の「山岳信仰の、山霊がつかわした」ひとともされ、里山にひっそりと、でも楽しそうに暮らされていた建立者の心ととても似た人だったのかもしれません。
とても良いものを見せていただいて、この探し物、大満足の結末でした。

どうも虚心坦懐に山だけを歩けぬ貧乏性、代表幹事が最後に探していたお姫さま神社でもまた探し始めましょう。

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