黒斑山

*長野県に抜けた途端に降り出した霧のような雨も、チェリーパークラインの時々真っ赤な林檎の生るカーブを上がって行くに従ってすっかり止んで、空はもう秋の色。見おろせば町は真白な雲の下に隠れてその向うに八ヶ岳が浮かび上がり、車坂峠に駐車した何台もの車からは、山雑誌で見る通りの非の打ち所のない山ガールがぞろぞろ降りて来て、わ〜い早速写真とカメラを取り出せば、おおなんてこったい、メモリーが足りぬと無慈悲なことを言われ、昨夜取り出したカードを入れるのを忘れてきました。人生は思っていないことだけが起こると、とうに知ってはいたのです。いたけれども少し平穏な時間が続くとつい油断するのが我家の悪しき伝統。
慌ててそばのホテルの売店で写ルンですを買い込み、秋晴れの空は爽やかですが日光は暑く照りつけ、ああ日焼け止めを塗るのも忘れてきたし、途中で食べるつもりで冷凍したおやつも忘れて、人生はままならない、あるいは思いも寄らぬスピードで惚けつつあるのかもしれません。

奥秩父の向うに富士山の綺麗な形が見え、正面の八ヶ岳、その右にアルプスの山並み、ホテルの前の山名板通りに山々が並び、右手には大きく高峰山。二十年ほど前におんぼろのコロナで高峰温泉の脇を通り池の平あたりを歩いたり、湯の丸山や篭ノ登山へ登ったことを思い出します。あの時は林道のどこかで自転車に抜かれたのではなかったっけ。

今日はビジターセンターのそばから黒斑山を目指します。
道は岩混じりでよく踏まれシラタマノキがびっしり実をつけて、その所々に松虫草やヤマゼリ、キリンソウなどが混じります。シラタマノキはほんとうに潰すとサロメチールの匂いがして、涼やかというか眼に痛いというか、植物の香りとはとても思えない。
アップダウンを繰り返すうちだんだん高度を上げ、見える山が増えて来て、高峰山が低くなりその向うが見え始めると見晴らしのいいガレ場に着きます。ここからは浅間方向を除いて遠くの山が一望でき、桐生みどりさんもあにねこさんもそのほとんどを登っているのか、声を弾ませてひとつひとつ説明してくださる。
八ヶ岳の間には甲斐駒が覗き、御岳山が複雑な形で一塊、穂高と槍の特徴ある稜線が続き、篭ノ登山のあちらに遠く霞む山脈のあれは鹿島槍、あれが剣と次々指さされて、代行が登ったことがあるのは常念だけ、それは長々と続くアルプスの山並みに溶けて形は特定できません。頭の中の地図もどうも方向が定まらず、それでも石に腰かけて風に吹かれながら、知っている山の名の数々を聞いていると一度は側に行ってみたくなります。

腰を上げて左手に大きな黒斑山を見ながら、再び歩き出せば、今日はほんとうに人が多い。すぐ前を歩く方を抜いたり、後から早いペースの若者に抜かれたり、栂の木やシャクナゲの樹木の下にはゴゼンタチバナが赤く実をつけ、目の高さにはクロマメノキが実をつけていて、こちらは薄甘い酸っぱさで時々元気づけに口に入れて先に進みます。
階段が作られた斜面を上がり正面に浅間山の赤茶色の山肌が大きくなって、その左手に崩れかけた岩場が見え出すとそれがトーミの頭、緑に覆われた斜面が突然すっぱりと落ち込んで、その緑沿いの急な道を点々とひとが登っていきます。こちら側のピークに立てば、浅間山の左斜面に一本の道が続き、右側の斜面を目で辿れば急峻な剣ヶ峰がすっと立ち上がり、その鞍部には遠く上州との境の山が霞みます。

ここからは右側は崖になるガラガラした道をトーミの頭へ。樹木に覆われた黒斑山とその向うに白茶けた山肌を見せる蛇骨岳が見えて、真下は柔らかな緑の草すべり、湯の平。急な崖にはくねくねと下り道が続いて、今日はとりあえず後の予定もあって黒斑山までですが、蛇骨岳を過ぎた先のピークから下る道と合わせて周遊コースにしても面白いと聞きます。
樹木の中に続く道を登りきれば黒斑山山頂2404m。ここからの浅間は火口の向うの稜線も見えて、薄い噴煙を真っ青な空に漂わせ、わ〜いここ十年以上の最高峰!

強い陽射しを避けて木陰に腰を降ろし早い昼食。まわりにはたくさんのひとが思い思いに憩っていて、こんなにひとがいる山は初めてです。六歳だという双子の少女がお揃いの出で立ちで、こんなに小さい時から登っていれば代行だってもう少し山を知ることができたと、まあ考えても詮なきことではありますが少しは来し方も思ったり。
遠くに霞む日光白根など眺め、どんっと大きな浅間山に飽きずに見入り、小洒落た山ガールを横目で観察し、さすがに風は冷たくてひんやりしてきた大休止の後来た道を途中まで戻ります。ちょうどお昼時にかかるので登ってくる方は引きも切らず、長い団体さんの列などを待ちながら、不安定な石の足場を下ります。

再びトーミの頭で蛇骨岳、大浅間に名残を惜しみ、鞍部の右側の中コースの下り道へ。こちらは雨が降れば急流になるにちがいない深く抉れた土の道で、両側は栂の木かしら、低い針葉樹が奥深く茂ったしっとりした、けれども展望はないコース。木漏れ日に苔が美しく揃い、様々な茸が生えて観察に忙しい楽しい道です。
いろんな茸を見つけるたびに歓声を上げるのですが、道沿いには美味しい茸はないのがお約束、フウセンダケやテングタケ、苔の上に音符のように並ぶ小さな茸などを撮りながら下ります。
一カ所ガレ場があり、ここからは下り着く車坂峠、高峰山がよく見えます。しばらく下れば右側の斜面には落葉松がもう薄黄色く染まって、少し触れただけでぱらぱらと葉を落とし、根本にはリンドウや松虫草、ヤマハハコ、コキンレイカと色とりどりの花が咲き、秋満喫の明るい笹の道になりそのまま出発点のビジターセンターへ。

途中古びた旅館の温泉に漬かり、実は本日は夜はこの三人は飲み会の予定。山でもお風呂上がりでもぐっと水分を我慢して、一路桐生へ戻りました。
急遽用意した写ルンですは、余り役には立っておらず何を撮ったかわからない写真ばかり、今回の写真の下半分はあにねこさんにお借りすることになり、両腕と鼻の頭は真っ赤に日焼けして、準備不足というか夢心地で決めてしまった山行、雄大な展望と歩きやすい楽しいコースでしたが、次からはもっと注意力を発揮して思ったことだけが起こる山歩きにしようと固く決意したのでありました。

長かった夏もどうやら終わりそろそろ桐生の山も歩きやすくなるはずです。

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