丸山再訪

*猫稲荷を見つけたらかつて芸妓さんたちが詣ったという白髭神社の金比羅宮へと足を伸ばし、いつもは静かなこの境内は明日からお祭り、風にはためく幟の間に忙しく準備をする方々を尻目に烏天狗の扁額上がる小ぶりの社殿に手を合わせ、例によって塀越しの本殿を拝見し後戸の石祠を順繰りに眺めていると、もしもし綺麗なおねーさんそこで何をしていらっしゃるなんてえことは仰らなかったけれど、氏子さんらしき人品卑しからぬ紳士に声をかけられます。
後戸の神さまの一番大きなものはかつて吾妻山山頂にあった吾妻耶神社の石祠だと教えられ、雷電さまは小曽根雷電山山頂のもの、境内中央に聳えるシラカシはきっと樹齢八百有余年、古い燈籠を寄進した中にはかの渡辺華山の妹婿も、そのひとは桐生家家老谷氏の出、とお詳しい。お聞きすればなんと「桐生市ことがら事典」の執筆者のおひとり史談会の小林一成氏で、猫稲荷の項をお書きになったのだとか、にゃんにゃんにゃん!
1600年も1800年も下手をしたら1900年もみんなひと括りに「昔」で片づける粗雑な頭の筆者、頓珍漢な質問を重ねて失笑されながらも桐生にまつわる膨大な知識の一端を教えていただき、なんといっても祭前日でお忙しい、後日の再会を約して神社の後の丸山へと。

ここには桐生に来たばかりの頃連れられて来ていて、代表幹事が小さな頃は公園だったといい、南の急斜面に途中まで錆びた手摺のつく踏み跡があったけれどなんだかぼさぼさした山だったと覚えています。
戦国時代には柄杓山城の出丸で、眼下には渡良瀬川、見張りには最適で渡良瀬左岸にはこのような出丸山がいくつかあって、平和な江戸期になれば当然どれも景勝の地になります。大正天皇がまだ皇太子の頃(明治35年6月)行啓されたそうで登路の始まりに大きな記念碑が建ち、その時に山頂に休憩のために亭が造られ、
暫くは丸山公園と呼ばれていたのだとか。その後亭の隣に山の所有者のお住まいが建てられたそうです。
ずっと昔に、空家になったその建物に不審な人物が住みつき、魚を焼く煙で消防車が出動する騒ぎがあり、個人の持ち山、建物も撤去されひと頃は立入りに煩かったのですが、今は整備の最中なのかしっかりした林道が山頂をぐるりと回り、基本は杉ですが雑木の中には満開の梅や咲き始めの桜花、淡いピンクのヤシオツツジも一本混じり、随分明るい山になっていて山歩きなら自由に入れます。

登り出しの北斜面は出丸があった名残でしょう幾段にも郭に切られて、広い平坦な山頂には琴平宮をはじめとして年代はもう読めませんが石祠が三基、やはり文字が読めない石柱ひとつ。西側は崖になって渡良瀬の流れに洗われ、南からは丸っこい小さな富士山、その向こうには榛名が浮かび、西は小倉峠の向こうにどっしりと赤城山。現在は樹木が枯れている季節限定の眺めですが、結構全国を歩かれ地元のひととも触れ合ったという大正天皇もこの景色を楽しまれたのかもしれません。
ぼんやり目を遊ばせ、山頂を巡る道を丁寧に歩いても下の神社からは小一時間の往復。麓にある手入れの行き届いた古い墓地で如何にも年代物の石殿を拝見し、200年ほど昔のひとが彫った「空」「風」「地」などの文字の生々しさに驚き、最後は赤岩の渡しがあったという古刹聖眼寺にお寄りして、桐生の歴史散歩のなかなか楽しいそぞろ歩きのコースです。

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白髭神社の金比羅宮
後戸の神さま・右端吾妻耶神社
丸山へ
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頂上の石祠
小倉峠の向こうに赤城山
小さな富士山と遠く榛名山

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