晩秋の那須
  那須へは二十年振りである。二十年前に同行した友人と夏休みに信州の高峰山を散策した際、秋には那須の三斗小屋温泉にという約束が実現した。三斗小屋温泉は海抜二千m近い峠を歩いて越えなければ辿り着かない。高校時代に始めた登山に何時しか遠ざかって二十年、高峰山のハイキングよりは少し登山らしい山歩きになる予定であるが、百キロ近い体躯を誇る中年男のパートナーは虚弱体質の私きりである。天気予報によると関東地方は晴れ、群馬、栃木の山沿いは雨に雪が混じるとのこと、甚だ前途多難が予想される。
 今年一番の冷込みの朝、花水木の紅葉の道を駅に向かう。学生時代の山行を思い出し、少し気持ちが逸るが駅についてびっくり、日曜日の朝の下りホームは色とりどりのザックを背負った善男善女が笑顔満面で電車を待っている。昭和の頃、若者のロマンチシズムを掻き立てた日本の山々は、平成に時が移り激動を生き抜いた、尊敬すべき高齢者達の社交場に変わってしまったようだ。
 館林駅で刑事コロンボの愛車を思わせる相棒の車に同乗、一路那須に向かう。那須インターを降りて少し走ると山々の紅葉は素晴らしいが、高原の街道の左右にはバブル崩壊以前に建てられたと思われるリゾート施設が、亡霊のように禿げた塗装を弱い秋日に晒している。とりあえず、那須山麓駅まで急ぐ。しかし、案の定紅葉狩りの車の渋滞に紛れてしまう。

  滞る道の紅葉は散り始む

 山麓駅に到着。迷わずロープウェイに搭乗。山頂駅は冷たい風が心地よく、まさに秋晴れ。さあ、いよいよ登山、二人とも今のところ当然元気である。

  鯖雲と交す会釈や那須の峰

 茶臼岳山頂を目指してゆっくりと歩をすすめるが、この時期あまりにも人が多く静寂と山の霊気を愛して止まない我々には、その喧噪に耐えられそうにもない。意を決して人の少ない南月山に向かうことにする。右に茶臼岳の噴煙を望みながらの、三百六十度の大展望、南月山の稜線の登山道はすこぶる快適。二人して 「やっぱり山はいいなあ」を連発。

  那須岳や噴煙雲に染む早さ

 次第に急な登りとなり急に息が少し苦しくなってきた。牛ガ首という分岐で一休み。悠然と景色を眺め、都会では肩身の狭くなってしまった煙草に堂々と火をつければ、少々の疲れは吹き飛んでしまう。晩秋の那須岳正に絶景。

  那須の峰粧ひ尽きてなほ晴るる
  那須全山風のかたちに枯れ初むる

 南月山という山、優しい山である。穏やかな登り下りを繰り返し、ほんの少し汗をにじませた所で昼食。ところが相棒は大汗に額を光らせ、何と諸肌脱いでTシャツを着替えている。大きなお腹が那須の山々に良く似合う。山麓駅で購った焼そばがうまい。山頂駅で汲んだ水がうまい。

  尾根道に優しく乾く秋の汗

 山頂に到着。小さな祠に合掌。眼下には小さな沼。茶臼、三本槍は目の前にそびえたっている。さあ、三斗小屋に下ろう。
 同じ道を牛ガ首まで戻り、急なガレ場を一気に下りる。遥か下に誰もいないキャンプ場が見える。

  午後の日や秋の無人のキャンプ場

 急な下りは延々と続く。膝が少し笑ってきた。気が付くと相棒が少し遅れている。やっとガレ場が終わり紅葉の森林帯に入る。相棒は大分辛そうだが、さすが大物、その昔数々の山行で培ったテクニックでゆらりゆらりと下りてくる。
 水場へ到着。この山旅で初めての水場だ。いや、二十年ぶりの水場ともいえる。ものすごく冷たいが、小さな滝を両手で受けてこころゆくまでのむ。硬質の揺るぎ無い味がする。放哉だったか山頭火だったか「入れ物がない両手で受ける」少し違うかもしれないがそんな句が思い浮かぶ。春日部駅のコンビニで買ったペットボトルのお茶を捨てて、沢の水をいっぱいに満たす。

  茶を捨てて水酌み降る秋の谷

 だいぶ冷え込んできた。「しずかだなあ やっぱり山は良いなあ」緩やかになった道を中年の男が二人言葉少なにしみじみ歩くこと数十分、三斗小屋の屋根が見えた。お互いに相棒に解らぬように小さな安堵のため息を付く。二昔前にもお世話になった煙草屋旅館、あたりの風景に微かな記憶が戻る。
 宿帳を書いて前金を払う。さあ、風呂だ。青年の頃、なんとか山岳会のおば様と入った黒光りした木の浴槽の混浴風呂は少しも変わらず健在であったが、残念なことに当時ランプだった照明が電球に変わっていた。ランプの下にぼんやり浮かぶ豊満な乳房が眼裏に蘇る。しかし、現在はご多分に漏れず女性専用の入浴時間がしっかりありました。
 山小屋特有のささやかな食事を腹十二分にとって、今度は露天風呂に勇んで向かうが、途中で懐中電灯が必要と解り、相棒を残して部屋に取りに帰って戻ってみると、あの大きな体が見えない。仕方なく一人で懐中電灯を頼りに石段の路を経て露天風呂に到着。闇一色の世界に少しだけお湯のさざ波が光っている。空には雲がたなびいており、星が雲の移動に見え隠れしている。

  黄落の温泉にゐて星の美しき

 相棒のいびきも心地良く朝を迎える。峰の茶屋、峠の茶屋を目指して帰路につく。途中延命水という水場があり、天然の山の水を満喫。
  延命水酌んで木橋の紅葉踏む
  登り来て小橋に踏むや樺黄葉

 霜柱を踏み、朝日岳を振り返りつつ無事下山。

  霜柱那須全山を見て立てり

 最後に、登山靴を買わなくちゃ。


平成十四年十月 春日(楚巒山楽会会長)

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