代表幹事追悼


 楚巒山楽会代表幹事の川俣慎一さんが3月9日午前、急逝しました。その日、勤務先に訃報が伝えられた時、一瞬事故が起きたのか思いましたが、突然の心筋梗塞で亡くなったとのことでした。身体の不調など聞いたことがなかったので、にわかに信じることができませんでした。まだ54歳の早すぎる死でした。前日、川俣さんは八王子丘陵へ神籠石調査に出かけ、その晩に調査報告を「やまの町 桐生」に掲載したばかりでした。
 川俣さんの付き合いは3年弱にしか過ぎませんでしたが、今までまとまった資料のなかった桐生の山全てについて桐生山野研究会の山本さんを加えた3人で調査し、集大成しようと集まった仲間で、その中心はもちろん川俣さんでした。彼は山歩きの対象になっている場所だけでなく、地元の人しか知らない裏山や丘を含め桐生中の山と名が付く場所全てを調査する意気込みで次々と「やまの町 桐生」に調査記録を掲載していました。その軽妙洒脱な文章は多くの人を惹き付けていました。
 山田郡誌や桐生市史に載っていない里山や丘について、祀られている神仏を調べ、地名を聞いて記録する作業は今までにない画期的な郷土研究だと思います。山と名付けられた場所の大半に神仏が祀られており、地域の人に親しまれていることがその成果から分ります。里と山とのつながりが少なくなり、地元に住んでいても祀られている神仏や地名を知る人は年々少なくなっています。それらを調べて記録を残すことは桐生市にとって貴重な財産になるとその完成を楽しみにしていましたが、志半ばで中断してしまいました。
 ホームページを見て桐生の山を専門に調べている人がいると、山本さんが知らせてきたことが川俣さんと知り合ったきっかけでした。面識はありませんでしたが、彼が桐生高校の同学年だったことが判り、彼のホームページに郷土の山の記録を載せてもらうことになり、お付き合いが始まりました。彼は吾妻山や鳴神山など知名度の高い山は書かないとのことなので、それらの山は私の担当になりました。私は沢登りや雪山の対象にならない低山には興味を感じていませんでしたが、彼に刺激され、桐生の山を集大成して1冊にまとめることを提案し、3人で新たな目標に取り組んでいたのですが・・
 3年間の膨大な成果を記載したホームページ中にある「やまだらけのまち 桐生」の画面には書ききれないほどの山が記載されており、「こんなにあったら全部登りきらないうちに・・・」とおどけて書かれていましたが、悲しいことにそれが本当になってしまいました。
 幸いこれまでの成果を集めたホームページを引き継いでいただける仲間が見つかりました。川俣さんの意志を引き継ぎ、今後その成果を活用できればと思っています。

増田 宏(桐生山野研究会)




 訃報の連絡をいただいた時は本当にびっくりしました。かわご石のレポートを読んで、いよいよ代表幹事さんが探し求めていた物が見つかりそうだなと思っていた矢先です。
 私のBBSにもよく書き込みをいただき、いろいろと教えていただきました。「仲間が増えて欣快の至りです。」 と言う投稿の一文にて、最初から里山歩きの仲間としてコメントをいただき大変嬉しく思いました。
 又、そもそも私の山歩きのきっかけとなったのは「やまの町 桐生」なのです。代表幹事さんのねらい通りの第何号だったのだろうか。直接お会いしていろいろ聞きたいことがいっぱいありますが、もうかなわないことが残念です。
 あっそうだ、代表幹事さんが落葉期になったら笹久保山の山名プレートを交換すると言われていた件ですが、私が代わりに交換しておきましょう。もうアンテナ山なんて呼ばせませんから安心してください。

谷内(ハイトスの里山山行記)




 楚巒山楽会代表幹事さん急逝のメールをいただいた時は本当に驚きました。直接お会いしたことはありませんが、ホームページの作成や閲覧を通じ何度かメールでのやり取りがありましたし、私のブログにもたびたびコメントをいただきました。ネット上に限った事ではありますが、共通の関心事である桐生の山や峠の話題で交流させていただいておりました。たいへん残念なことと存じます。代表幹事さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 代表幹事さんとのことを少し振り返ってみたいと思います。代表幹事さんと出会った(ネット上でという意味ですが)のは、私のブログに代表幹事さんがコメントを寄せていただいたのが最初かと記憶しています。2006年3月に菱町の金葛遊歩道について建設経緯などを少し調べて小文にまとめたものをアップしたのですが、そこにコメントをいただきました。
 私は、ブログとは別に、桐生周辺の峠道を自転車で巡るという内容のホームページを開設しています。そこに村松峠越えの報告を書いた時に楚巒山楽会さんの記事を参考にし、ある部分を引用させていただきました。そこからメールでの交流が始まり、お互いにホームページをリンクすることになったのです。
 その後、私がアップする駄文にたびたび感想やコメントを下さり、時には私の間違った記述などを指摘していただいたり、新たな情報を付け加えて下さったのです。峠歩きや山歩きの際、随分と代表幹事さんの記事を参考にしたものです。文献やガイドブックにはない貴重な生の情報が豊富だったからです。

 代表幹事さんのホームページの魅力は、桐生の山に関する詳細で膨大な情報はもちろんのこと、その独特の語り口にあったのではないかと思います。山歩きや登山の報告記は、山岳小説や有名な山岳雑誌などに掲載される登山記の影響もあってか、なんとなく格調高く格好つけて書くか、あるいはコースの状況や景観を事細かに書くといったような傾向になりがちですが、代表幹事さんの文章は、どことなく飄々としていて、洒落がうまくきいていて、時に鋭い皮肉が散りばめられるといった風で、まさに代表幹事さんでしか書けないオリジナルなものでした。そうした山歩きの記事がもう永遠にアップされないことを思うと、やはり寂しい気がします。
 しかし、有志の皆さんのお力で、代表幹事さんが生み育てた「やまの町 桐生」が今後も引き継がれ、存続されるというお話を聞き、たいへんうれしく、温かな気持ちになりました。「やまの町 桐生」は、山歩きの情報提供という側面のみならず、桐生の文化や民間の信仰、民俗等に関する資料としての側面からも貴重な報告に満ちあふれたページかと存じます。今後とも閲覧し続けたいと思っています。そして、できるだけ多く桐生の山々を巡り歩こうと考えています。「やまの町 桐生」のこれからの充実・発展を大いに期待しております。

馬場慎一(『激坂調査隊が行く』)




楚巒山楽会代表幹事・かわまたさんへ

 小生のブログ「上州東毛 無軌道庵」の山歩きの記事に何度もコメントや激励を寄せて下さり、ありがとうございました。今頃、賀茂神社の神様と神籠石の上で一杯やっているでしょうかね?

 貴殿は、共に八王子丘陵に魅せられ、共に数々の秘められた謎に挑んだ、まぎれもない「同志」でした。メールはこの3年間で何十通もやりとりしたのに、結局一度もリアルにお会いしてお話することはできませんでしたね。こんなにも早く突然に「同志」を失うことになるとは、たたただ痛恨の極みです。でも貴殿の御蔭で、祠や石仏や神石を探しに実際に山々を巡ったり、図書館や役所で資料を漁 ったりして、生まれ故郷の山々をより深く知ることができ、とても有意義な時間を過ごせました。本当に心から感謝しています。

 また冬になったら、まだ未解決の謎の解明や新たな謎を求めて八王子丘陵を彷徨してみようと思っています。それらが迷宮に陥らないように、そちらから何か示唆を与えて下さるとうれしいです。よろしくお願いしますね。

 天国から眺めた東毛の山々はいかがですか?

 そうそう、そちらで「八王子山脈縦走記」の新井信示氏にお会いしたら、いったいあの雷電祠って当時どこにあったのか、聞いておいて下さいね。

無軌道庵主人 すずき@東毛 (鈴木)




 代表幹事さんが流星号に乗って去っていった3月9日から、もうすぐ二ヶ月が過ぎようとしています。突然の訃報に接したときの驚きは時と共に薄れて行くのかも知れませんが、桐生の緑深まる山々を眺める時にふと、代表幹事さんはあの山についてあんなこと書いていたな、と懐かしんだり、山歩きに佳い日なのに、あの独特で軽妙洒脱な記事がアップされることはもうないんだなあ、と寂しく感じたりしています。この思いは当分続くのでしょうね。
 「やまの町 桐生」が多くのファンに愛読されていたのは、どんな小さな山にも登って、一つ一つの山に関わる歴史や文化についても丁寧に調べ、それまで知られていなかったような山の魅力を次々と発掘していったところではないかと思います。私も「やまの町 桐生」で初めて知ったり、興味を惹かれて、それがきっかけで登った山がたくさんありました。
 代表幹事さんの急逝により、山歩き愛好家にとっても、また桐生市にとっても貴重なホームページ(ひとつの市の山がこれだけの情熱で紹介されているところが、他にあるでしょうか)の存続が心配されましたが、関係者有志の方々の熱意で続けられることになり、私もねこの手ながらHP管理・制作の面でお手伝いさせて頂いています。新しい記事も増えつつあります。ですので、代表幹事さん、こよなく愛した桐生の山のどこかでゆっくりとお休みになって、これからの「やまの町 桐生」を見守っていてください(4月27日に記す)。

代表幹事補佐 




追悼
かわまた様

もう少し早く「かわご石(神籠石)」へご一緒出来ればと悔やんでおります。結局直接お会い出来ず仕舞いが、尚更印象深く記憶に刻み込まれております。

かわまた様とは、ネット上での不思議な出会いと言えます。良く”スモールワールド”や”6次の隔たり”と言いますがインターネットの素晴らしいメリットと思ってます。

2008年新春、高齢の父と「かわご石」まで山歩きする事になり、間違えながらも土に埋もれ変わり果てた「かわご石」を発見しました。帰宅し何気なく「かわご石」の事をネット検索してみましたら「やまの町 桐生」なるホームページに出会い、桐生界隈の山を詳しく紹介している内容に父と二人で感動しました。

「かわご石」を必死に探索している、かわまた様にホームページにて発表して貰いたいと思い、メールで連絡をとらせて貰いました。かわまた様の思いの一念が偶然を起こしたように感じました。

私も一人ではかわご石の場所は解らないので父と叔父のどちらかが一緒に行けば見つかるはずなので連絡をとり協力させて頂きました。しかし、同行した叔父は高齢で体調も悪かったようで最後まで同行できず途中で休憩して、かわまた様達が探索したそうです。ホームページに掲載したとの連絡を頂きましたが、残念なことにどうも違うような気がしました。父に見て貰い確認する時期が、’09年正月になってしまいました。ただ、父の体調が悪い事もあり春になったらという事になりました。

かわまた様に連絡をとり再度日程を調整しトライしようとメールしたのが何と3月9日(正確には日付が変わり10日の午前1時頃)でした。内容は父と私の体調(5年前に急逝心筋梗塞で倒れ3度手術し現在も治療中のため)にもよりますが、彼岸の頃に行く予定という内容のメールでした。

数日しても返信が無くホームページの更新が無いため仕事や家族の関係で自宅に居ないのか?と思っておりました。

3月20日タイミングを見て車で行ける「ダイマチ窪 」に車を停めて、道中のテープの印を確認しながら「かわご石」に到着。昨年よりも更に土砂が乗り倒木が重なり発見を困難にしておりました。猪が水と沢蟹を求めて来ると思われる痕跡が多数 ありました。かわまた様のHPの写真と現場で現在の「かわご石」を確認。「?」が外れた確認のためクリアファイルにテープで「かわご石」と括りつけ、かわまた様の呼びかけに対応でき安堵しました。

春日部の自宅に帰宅し報告メールをしました。

しかし、返信も無くHP更新も無いので余程の事があったのかと心配しておりましたが、連絡先も解らないため思いあぐねておりました。

そして年度末、年度始めでバタバタしており、再び「やまの町 桐生」を訪問し、最悪の結末、かわまた様の急逝を知ったのが4月半頃でした。

非常に短い時間でしたが、一生忘れることが出来ない人です。

かわまた様がゼロから築いた桐生の山々、しかも身近なのに名前を知らない山々、文化遺産に息吹を送った。中島みゆきの「地上の星」を思わせます。

一度ゼロから築いたモノは、無くなる事は無いと確信しております。

私も初めて心筋梗塞になり倒れた時に何が何だか解らないまま、ある段階で眠るような心地よい感じになりました。動けるまでちょっと休もうという感覚で横たわりました。

私の経験と医者の話ですが、人間は心肺停止後も聴覚は活動するそうです。きっと大好きな山の中で春の生命の息吹を聴きながら安らかな睡眠に入ったのだと思います。

かわまた様の推奨の山々を友人にも紹介し楽しめればと思っております。

安らかに!

S. Iso 




私とかわまたさんのつながりは、神籠石ただそれだけです。
山歩きからはどうしても畑違いで、このような文を書くこと自体おこがましいのですが、どうしても書きたくなったので追悼を込めてお送りします。

私は岩石の信仰について調査をしている中で、インターネットを通して知り合った別の人からこの神籠石の存在を教えてもらいました。そうしたら、今度は検索を通してかわまたさんの神籠石のページに出会いました。むしろかわまたさん以外この神籠石を触れているページはありませんでした。インターネットという世界でしたが、人から人へつながっていく不思議な縁だったと思います。
何かが1つ欠けていたらかわまたさんと出会うことはなかったでしょうし、神籠石の行方がこのように明らかになることもなかったのかもしれません。

わずかな期間でしたが、かわまたさんとあそこでもない、ここでもないとメールでやり取りしていた頃を思い出します。いつだってかわまたさんは私の神籠石調査という時間の中では先達であり、最も謎解きのゴールに近い人でした。
かわまたさんが最後に取り上げた岩石が、結果、本当の神籠石だったと地元の方のお墨付きが得られたとのこと。私も同じ場所に立ちましたが、そのとき私のアンテナは働かず、写真を撮りませんでした。
やっぱりかわまたさんは先達だったんだなと、見つけるべき人が見つけたんだなと思わざるを得ません。

短い、限られた付き合いでしたが、この神籠石を通して私はかわまたさんという存在を忘れません。
過去の文化財にとどまらず、今現在の色んな人たちをつなぐことになった神籠石。神籠石の土を取り除く時はお声かけください。都合がつけばお手伝いしたいと思っています。

MURY(岩石祭祀学提唱地)




追悼
川俣氏が急逝されて驚いてからもうじき二月になる。私と川俣氏と知ったのはホームページだった。06年5月13日に雉の尾山と言う山名で菱の山が紹介されてからで、それは違います雷電山です、からお付き合いが始まり本年3月8日の賀茂神社の神籠石へ私と二人で元気で行って来るまで密接にお付き合いいただきました。8日はあんなに元気に行ってきたのに9日14時に警察から電話があるまで何も知らずで8日の神籠石発見?のページを見てました。私は川俣氏の発見された石には?でした。それは文化財課のX氏からあの石はもう相当傾いてしまいまた土砂に相当埋もれてるのではないかとの情報を耳にしてましたのでついISOさんの言われたあの石とは私も知らずで私はあの現場では川俣氏の意見には?をもってました。でも神籠石かわごいし(文化財課ではこうごいし)も大勢の皆さんのおかげで正式に発見できたことは川俣氏の執念の功績と思います。おかげさまで数年後に発刊される桐生地誌には正しい神籠石が記載できます。川俣さんとは短いお付き合いでしたが内容の濃いお付き合いをさせていただきました。ありがとう、ほんとにありがとう。安らかに御眠りください。短かったが永かったお付き合い心からありがとう。

菱の住人(川俣氏には最初の頃はこのように名乗ってました)hisiyama



    楚巒山楽会トップへ戻る

inserted by FC2 system