うかうか記4

あかね


某月某日 根本神社の石灯籠----人はなかなか優しくなれない

天の邪鬼に肩入れして神仏に文句をつけていると、ひどい罰が下って永遠に春は来ないし最愛の人を失うという、嫌な因縁話ができそうなほど3月からの日々は最低である。
けれどもひとりぼっちになった初老の女ほど無頼なものはない。そんな陳腐なお話には与してなんかやらない。神も仏もあるもんか、である。改心なんかしてやるもんか。恋情あふるる夜叉になり、ひとりで山だって歩けるようになった。ちょっと迷って怖い思いもするけれど、後ろを歩く足弱を無言で気遣う優しい広い背中を追い求めてかつて一緒に歩いた山をよたよたと歩いている。もっとも夫の遺言を守るよい子だから、車の運転はできないままで、徒歩で登れるチョー低山だけの話だが、幸いまわりにはそういう山ばかりで、なおかつどこに登っても思い出すことはたくさんあり、倦むこともない。
同じオハナシを作るなら、理に落ちた神罰の因果話より、阿羅漢に恋する夜叉とか、天の邪鬼を愛した山の神の物語、あるいは百年に一度とやらの経済危機に翻弄される一庶民の怒りと哀しみのルンプロ文学、はたまた戦後から経済成長期を経て今に到る日本という国の暗い魂を描く全体小説の方がよっぽど性にあってるし読んで面白いに決まっている。
などと無駄に息巻いていると、一清道人ならぬ混世魔王さまからメールが届く。「おくさん、おくさん、近場にもいい天の邪鬼がおりますぜ」。なんとすぐそばの根本神社の里宮に石灯籠を黙々と支え続けるひとがいるというお知らせ。3月までの数ヶ月天の邪鬼を捜して夫と足利・太田・桐生をめぐり歩いてきたけれど、こんな近くにいたとは気がつかなかった。

山で見かける石祠や神仏が社会化される以前の祈りの産物だといういままでの主張に、昨年夫から疑義が出た。霊山や修験道の山は別にして、このあたりで見る山中の石祠や石仏に江戸期以前のものはない、というのが夫の疑義の根拠である。せいぜい山で祈るったって江戸時代から始まるんだよ、とのたまう。違うわよあなた、石祠や石仏があるから祈るのではなく、祈りが山の中に渦巻いていたのが先でその対象が宗教的な形になったのが江戸以降なのよ、江戸期以前は山にはあやかしどもが跋扈してたけど、江戸期の安定と平和であやかしが薄くなったので、祈りの形としての神仏が蔓延るようになったってこと、というのがなんの根拠もないわたしの反論である。ひょっとしたら石灯籠の下のやつらはその時に薄まったあやかし達の残り香かもかもしれないよ、と事実も文献も歴史も関係ない頭では勝手な妄想が強まるばかり。

根本神社は、由良氏に負けた桐生氏の家来が、戦で死んだ同輩や自刃した奥方の冥福を祈って、天正元年に建てたという(HP「桐生の民話」より)。あんな岩の上に建てたものだから、昔から行けない人もたくさんいて、現在でも神社関係のサイトを調べると参拝不能としているところが複数あるくらいだから、もちろん里宮がある。ダムを造るためにその里宮も今の位置に移転したらしいが、神社建立が天正元年といえばまだ本能寺の変の前、江戸期どころではない。ひょっとして石灯籠もかなり古いものかもしれないと期待しててこてこ出かけてみたら、狭い境内に石灯籠は林立しているが、あら残念。

ひとつだけ石灯籠を確かに支えるものはいるが、修復という段階を超えて新しい材質で作ってある。今まで見た神社の天の邪鬼の中では一番人相が悪い。おおらかに悪いのではなく、恨みがましく、目つきが邪悪である。半裸・太鼓腹ではあるけれど、これはやっぱり封じられている悪いヤツというたたずまい。赤城の支えるものとは違って本殿のすぐ脇にあるのもあやしい。夫が捜してくれた同じようにひとりで小さな灯籠を支える産泰神社の、これは鼻の形から天狗の仲間のようだけど、こちらの方が覚悟と品と勁さがある。混世魔王さまの嘘つき。
神社の方に話を聞きたかったのだけど、根本神社里宮そのものを近所の方もご存じない始末。本宮をあんなに苦労して造った桐生氏の家来の方々はどこへ行ってしまわれたのか。神代に負けた赤城山とは違い、人の歴史の中で負けた方はやはり優しさよりも恨みが勝るのかこの悪相、その上本来祀りたい桐生氏の人を表に出すわけにゆかず、山神親子をかわりに祀るからやっぱり後が疎かになる、なんて勝手なことを思いながら、すぐ近くの兼宮神社にもお寄りする。こちらには天の邪鬼はいないけど、なかなか迫力ある狛犬と、おりからの強風に限りなく降ってくる桐の花が迎えてくれる。柔らかな甘い香りと寂しい薄紫の色に、故郷とうまく和解できた夫の最期を思って少し泣く。

と、じめじめしたのはほんの少し。帰りはここのところ撮りためているお寺の香炉下の天の邪鬼コレクションのためにいくつかお寺を巡る。どのお寺にも天の邪鬼はいなかったが、どこへ行っても梅田は桐の花が降ってくる。桐生の本元はきっとこのあたりだったにちがいない。
ついでに桐生氏を滅ぼしてすぐに没した由良氏のお墓にも寄って人の果敢なさをしみじみ感じ、なんだかすっかり郷土史巡りの良い子みたいな半日を反省して、最後はやっぱり山で締めなきゃと鳳仙寺天神山へ登ろうとしたら、いけないあたしったらサンダル履き。

というわけでゆっくりとではありますが、やっぱり赤城神社奥宮めざして、支えるもの探求は続くのであります。

おまけ(お寺系コレクション)

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