うかうか記6

あかね


某月某日 猿田彦神社・庚申山―天狗を探して

今回は天の邪鬼から少し離れて、日本独自の発展を遂げた山の主天狗に寄り道。山の神の仲間なのか、ある種のお坊さんの成れの果て(?)なのか、修験道の論理母胎と思われる道教から派生したものなのか。なんにしろ天津神の仲間でないことは確かであり、どこかで神道や仏教を支える役割を担ってしまった一種のササエモンではないかというのがわたしの天狗観である。

矢切光蔵さんの「天狗の研究」は面白い本で、研究というより天狗への讃歌。この中で一項を設けて庚申山の天狗について触れている。ところがどうもなんというか靄のかかったような書き方で、著者は天狗がいるとは確信されているのだが、具体的なエピソードの紹介は少なく、北関東の天狗にはたいてい名前がない、などと書きながら赤城山杉ノ坊・日光山東光坊・妙義山日光坊・金洞山長清法印・榛名山満行坊・相馬ヶ嶽相満坊・新田山佐徳坊・迦葉山中峯尊者・古峰ヶ原隼人坊・上野妙義坊など、そんなに高くない山にもたくさんいるこの辺の天狗にはほとんど坊名があるし、名前がないのは庚申山の天狗だけのように思える。しかも明治に見られたここの天狗はがっちりした男と色白の女、子供連れのご夫婦で、いわゆる天狗とは余りにかけ離れた風貌。大正年間には天狗の奇瑞を受けた太刀が病を治す太刀となったり、他の天狗譚とは一線を画し、天津神や仏教のササエモンを免れた奇跡の天狗のような気になる。なんだかとてもじれったくなる文章がますます庚申山の天狗への興味をそそるように仕掛けられた書き方である。

天狗の投げ文は、ネットが発達して某巨大掲示板あたりで日常的に目にするようになったけど、庚申山と天狗といえば、まず天狗の投げ石だろう。たぶん岩の摂理によって剥落する石が、水と同じく低い所を目指して転がり落ちてある一カ所に集中するということなんだろうが、やはりその情景を目の当たりにすると不思議な景観である。昔の人はうまく説明できないものを見たり聞いたりしたときには、神だとか鬼だとか天狗だとかの仕業だと想像することで納得しようとしたのだと思う。人にとっていいことは神、悪いことは鬼とか祟り、ただ不思議なことは天狗という風に。
そしてなんといっても猿田彦神社。今は銀山平の里宮に社殿があるだけだが、山宮が百十四丁の猿田彦神社跡(今は庚申山荘に石祠が残っているとか)、混世魔王さまはすぐ側まで行ったらしいが、道がまったく崩れてしまいもう近づけない奥の院が明治のお山巡り絵図に載っている。
庚申(かのえさる)なので猿田彦、じゃわりと短絡的な神道の神の設定のような気がしないでもないけれど、猿田彦は天狗のモデルでもある。天津神たちが“ここ”(蛍火のかがやく神や、蠅声なす神や、ことごとくにものいうことがある草木に満ちた“ここ”)へ降りてくるときに、天鈿女命に思わず返事をしてしまって道案内することになっちゃった、まぁ薄物のおねーちゃんの色香についふらふらして、口をきいてしまったばっかりにいらぬ散財をしてしまう男の子みたいな神さま。自分の財布だけの問題ならよかったのだが、“こっち”と“あっち”の境目を守る塞の神、共同体そのものの問題だったので、やって来た方にすれば第一番の帰服神ではあるけれど、本人は内心忸怩たる思いもあり、屈折せざるをえないので、口をへの字に曲げて強面を装った表情が定着してしまったんじゃあるまいか。
山伏姿なのは修験道の方々の衣装。役の小角が始祖とされるが、険しい山岳で行を修め霊験を得るための、道教や仏教(密教)、山岳信仰としての神道が混合した「道」で、鎌倉時代には多くの霊山開山が集中している。それまでの都での仏教や神道に対するアンチとしての天狗が武士の台頭とともに広がり、不思議を納得するための天狗話が、逆の方向、天狗の話を利用することによって不思議を演出するようにもなってくる。


江戸時代の庚申山絵図

(天狗の典型的姿。05.2夫の撮影)

もともと日本に入ってくる前、中国では天狗は空で起きる大きな音や飛ぶ光だったらしく、隕石なんて概念がないときは空中の大きな動物が起こす現象として説明するのが一番。日本でも最初の天狗は空で起こる光と音として登場する。あまつきつね、空に巨大きなきつねが飛行しているというイメージはなかなか魅力的で、この空を飛ぶという性質はこれ以後ずっと烏天狗・木の葉天狗など天狗の特徴として引き継がれる。攫われた人間が元の場所に戻るまで、空中を天狗と共に移動し、遠いところを見て来た昔の話がたくさん残っている。これは場所だけの移動ではなく、時間の移動、生と死のあわいの移動も含み、“あっち”と“こっち”の境を自由に行き来できる塞の神としての性格が付与され、天狗の移動能力は一時拡大する。
中世では空飛ぶ動物ではなく、人の姿に似た形をしてもうひとつの特徴、幻術を使う天狗が登場する。しかもこれに引っかかるのはたいていが修行を積んだお坊さんである。禅でいうところの狐狸禅みたいなもので、しっかり成仏できたと思い感涙にむせんでいると、実は天狗の見せた幻であったという話が「今昔物語」には色々載っているそうな。仏教がまだ宮廷・貴族社会中心の教養文化の一部であった時代、どんなに修行を積んでも現実の世界の階級や序列から自由になれず、鬱屈しはみ出してゆくお坊さんが天狗になったと考えられ、結局自分よりもっと修行した力や徳のある僧に幻術を見破られて改心したり、反省して山へ戻ってゆくのだが、天狗の名前にお坊さんの名が多いのはそのせいらしい。

神道系の猿田彦、仏教系の挫折するお坊さんの他にこれが一番原型の天狗ではないかと思われるのが、山妖・山𤢖(やまわろ)・山人系あるいは山神系地主神系の天狗である。先の庚申山の子連れのご夫婦などがこの系列。天狗の投げ石、天狗倒し、天狗笑い、天狗礫、天狗火、天狗神楽、天狗囃子、枚挙に暇がないほど山中で妖しいこと・不思議なことを起こすだけで、特に人に不利益なことや悪いことを行うわけではない。
これが“ここ”に始めからいた神の姿で、やってきた新しい神の集団に帰服しないまま山中に逃れた国津神の末裔ではないのか、人が何かに祈るときのもともとの「何か」ではないのかと思っている。なにかしらのご利益をいただくためではなく、具体的な名前や姿をもつわけでもなく、信じないからといって祟りがあったり罰を下すわけでもなく、ただ己を超える何かに対して自然に手を合わせ心を開く、日本の本来の神の姿はそんな形ではなかったのだろうか。

と、読み散らかした本と切れ切れの想像(妄想)をもとに庚申山へ天狗探しにでかけたのだが、なんの修行もしたこともなく、しかもひとりじゃとても行けないので、霊験が灼かにならないのは勿論、幻術にかかり夫の幻を見ることもできず、“あっち”の世界に飛行させてもらうこともなく、礫や笑い声もないままに、鹿と至近距離の遭遇を果たしただけで山歩きに勤しんで来た。
矢切光蔵さんの本によれば、「庚申山の岩山を攀じ、山頂の三猿窟に一、二夜を明し、皇海山への奥の院道を往復する三、四泊の山籠りだけでも、我々の心に山の神秘と、天狗の存在を植えつけることは確かである。」とのこと。こんなハードなことができっこないわたしが天狗に会えることは金輪際なさそうだけど、近代以前の野蛮な感受性と雑な妄想力で天狗のことや天の邪鬼のことを気ままに考えるのは実に楽しいし、快い。

のでありますがゆえに、そしてそれを終わらせたくないばかりに、赤城大沼がますます遠くなり、まだまだうかうか記は続くのであります。

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