鷹林寺〜寄日峠

*上の2/3がやたら白っぽい桐生市の1/20,000の地図を見るのが好きです。壁に貼ってぼんやり眺め、みどり市との境の高い山稜から桐生川に向けて下って来る山筋を指でなぞる。どれもけっこう長いけれども谷へ落ちる密度の濃い等高線から比べると緩やかで簡単に歩けそうに思えます。
代表幹事は余り長い時間の山歩きをしない人だったので、山を巡るようなコースはほとんど取りませんでした。当会はひと山ひと山丁寧に、というのが会則でもあります。けれどもどうも代行は、だらだら長く山を歩くのが性にあっているのではないかと最近気づきました。何かを目標にではなく、山の中にいる、山の道を歩いているただそれだけで心弾みなにか楽しい。
二渡山脈を歩いた時に隣の尾根も歩いてみたくなりました。忍山山脈と『山田郡誌』で名づけられた、残馬山から忍山川の左岸に連なる山並みです。暖かい冬の日曜あにねこさんとご一緒しました。

一 鷹林寺〜愛宕山・天竹山
代表幹事が、鷹林寺からの「取り付きはかなり乱暴です」と書いていましたが、乱暴を二乗しても足りないかも。フェンスを開きコンクリートで固められた水路を渡って保護柵を越えます。竹薮のかすかな踏み跡を辿り、もう一度猪除けの細い鉄線でできた柵を越える。どちらの柵もゆらゆらと体重を預けるのが恐い。そのうえのっけから急登です。杉の植林の中、崩れやすい土と共にずりずり滑りながら上を目指すのですが、植林地の嫌なところは手がかりが全くないこと。あにねこさんにあれこれご面倒をかけながら暫く登ると突然よく踏まれた道が下から現われます。ひょっとしたら愛宕さまに行くしっかりした参道が、お寺より北側の集落にあるのかもしれません。
道はいい具合につづれながら石祠がふたつ並んだ頂上に導いてくれます。地図上はピークになっていませんが、杉林を抜けてちょっと開けた頂に愛宕神社と疱瘡神が。疱瘡神は貧乏神のように襤褸を纏った老人で、夢の中に入り込んで天然痘や麻疹を運ぶそうで、その老人を入れないよう村境にこの石祠を建てる風習はどこにもあったといいますが、はっきり「疱瘡神」と書かれた石祠は山の中ではあまり見かけません。このあたりの山にはかつて人がたくさん住んでいて山道が村境、往来は山道頼りだった証しでしょうか。この稜線、地図上では何本もの破線が交錯し、峠がいくつもあるようです。

少し下った鞍部にも石祠がひとつ。何も書いてありませんがこれは山の神さまかな。
残馬山への尾根につき当たり左へ、天竹山にご挨拶に伺います。少しの間は歩きいい道ですが頂上直下から小枝がうるさくなり、踏み跡も怪しくなります。もさもさした頂上で木々の間から鳴神山と木品山がちらちら見える。少し下ったところにある391,8mの三角点からの方が、高戸山や鳴神から大形山への稜線、三角山が可愛い仙人岳の稜線、眼下には梅田ダムが眺められ展望は良い。代表幹事が記事にしていたので楽しみにしていたR.Kさんの看板は木が切られたのか風に飛んだのか、残念ながら見当たりません。
ここから元に戻り残馬山への稜線を寄日峠まで辿ります。

二 571mピーク越えまで
忍山山脈だけではありませんが、この稜線は特に細いまま育つ杉林が多いような気がします。手入れする人がいなくなったのか、あるいは手を入れてもそれに見合うだけの値段がつかないのか、ひょろひょろ伸びてみっしりした杉林は暗いし寒いし寂しい。
時々雑木を交えながら尾根道はゆったりと高度を上げます。天竹山あたりでははっきり聞こえていた麓の音ももう届かず、深い山を彷徨っている気分。道はあまり踏まれておらず、雑木林に入ると落葉でふかふかして小枝が被さります。人より獣がよく歩く道か鹿の糞があちこちに落ちています。

480m位の小ピーク(膨大な索引のページでは鷹の巣山と書かれていますが、どうも鷹の巣山はもっと奥にあるようです)を過ぎて少し登り返すと杉に赤いマークが目立ってきます。いつも思うのだけどこれは山道マークなのか、林業の何かの印なのか。昨年福島では素人ばかりの山登りでこの印を追って、とうとう山頂に着けなかったことがある。ここでは斜面には見当たらないので道の印なのかしら。
少し小広くなって、ここから東に延びる稜線には桐生市基準点のNO.124があるはずで、せっかく山の基準点を調べたのだからと少し捜し回ったのですが発見に至らず。

このすぐ先に1/25,000地図では忍山・観音沢と梅田ダム沿いの大州を結ぶ峠道が書かれています。雑木だらけの両側は急斜面でどうも峠道の痕跡は見つからない。記事の地図上では薄めの緑丸をつけましたが、上から辿るのは難しそうです。

痩せた尾根を少し急登すれば571mのピーク。細い雑木が生え放題ですが、四方に尾根が伸びる静かな頂上。ここからは左手に鳴神山から大形山への稜線が木の隙間に見え、振り返ると雨降山から仙人岳の稜線の下に菱の町が霞んで見えます。ここもきっと名のある山にちがいありません。
頂上に看板もテープもなくて淋しいので木に赤い印を結びつけていたら、あら、hisiyamaさんの看板発見。緑のテープに「蕪丁」と矢印、鳥居マークと矢印が読めますが、銀文字が薄れてあとはよくわかりません。愛宕山を出てから久々に見る文字は嬉しい。
ここから忍山川に向けて下れば左手の山間に蕪町との字名があり、そこにかつては小さな集落があり機屋さんさえ一軒あったというのですから、この山稜に峠道が多いのは宜なるかな。ぐるりと桐生川沿いに歩く長さを思えば山を越える方がずっと早かったのでしょうし、下れば温泉場があったのですから歩くひとも多かったのかもしれません。

ここから北へ杉だらけの急降下を下り次の峠を目指します。忍山湯本と大州を結ぶ道がこのあたりで交差している筈なのですが、かつては歩かれたこの峠も両側が杉の密生した暗い急斜面でやはり降り口は特定できませんでした。

三 606,6m(唐松山)
だんだん稜線には大きな石が混じり出します。痩せた尾根の小さなピークを越えて歩いていると、山が深くて方角もよくわからないけど銃声が連続して聞こえる。うわ、鹿ならいいけど手負いの熊さんなんかが上に逃げてきたらどうしよう、と思ったけど口には出さない。代表幹事が山で怖いと思ったって絶対に言葉にしちゃいけないと予々言っていたので我慢です。

木がぼそぼそした606,6mの三角点に着いたので早速食事の準備。三角点より少し西側に日当りが良くて、風が来なくて、見晴らしがいい三拍子揃った場所を確保。稜線上ですがここを歩く物好きはそうそういないはず、あにねこさんがお湯を沸かし始めます。
恐怖が伝染するものなら当然空腹も伝染する。ぐうぐう鳴るお腹にパンやらラーメンやら果物やらハムやらなにやかや手当り次第に詰め込んで、手負いの熊ならぬ赤頭巾ちゃんの狼のように満腹して、さてこの山頂、すぐ下に唐松の字名がありここはとりあえず唐松山と呼んでおきます。これはもう少し調べてみるので仮称です。

この食事処から下る道しばらくは実に見晴らしがいい。左手の木々がまだ幼いからですが、鳴神がこんなに凛々しく見える場所はあまりないかも。その手前には持丸山が大きな山容を見せて桐生川方面にゆったり下る稜線も鮮やかです。正面には寄日峠の手前の大きなピークと、その後に残馬山やそこから西への稜線、視線をずっと南下させれば二渡山脈と鳴神山脈が伸びやかで、左から菱の稜線が重なって桐生市街がきらきら輝き、八王子丘陵の向うに秩父の山並みが長く、右奥には頂に雪を纏った八ヶ岳が見えます。この景色、あと4、5年で、木が育ったら眺めることはできないでしょう。

四 寄日峠まで
眺めを楽しみながら下った鞍部に湯本と橋場を結ぶ峠があります。これは両方向かなり急ですが道形があります。この峠は名前がほしい。忍山峠、あるいは橋場峠、それとも唐松峠?とりあえず唐松峠と地図には書きましたが、これももう少し調べてみます。
この先大石を除け、張り出した木の根を除けちょっと汗ばむ登りで641,9m峰、大きな山でここはやはり下の字名から鷹の巣山としておきましょう。高沢の奥にも鷹の巣の字名があり、そちらにはもっと高い鷹巣山があるらしい。申し訳ない、急に決めた山行は調査不足で宿題だらけです。

ここからの下りが今回一番辛かった。急です。チョ=急です。登りなら足さえ出していれば必ず前に進みますが、下りはどうも足を出したら最後、転ぶか走るかしかないような気がします。掴まる木が多いので助かりましたが、ここは脚下照覧。
下り着けば石祠が二基。ふたつとも赤城神だといいますが神名は読めません。この祠の向うに昔は赤城山が見えたのかしら。嘉永四年の文字があり、この年坂本龍馬は17歳、いよいよ激動の時代はすぐそこに。
残馬山へのルート、この寄日峠は周りを椿の木で囲まれた静かな峠。椿はまだ堅い蕾がちらほら見えるだけで見頃には少し早い。今は肉厚の葉が艶やかなだけですが、ここが満開になれば、あるいは落花の時期はかなり豪華絢爛とした景色かもしれません。別名木闇峠ともいうそうで、確かにこの椿の群落は冬でも日を遮って薄暗い。
残馬山への稜線にはよく踏まれたしっかりした道がついていますし、寄日へ下る道も大茂へ下る道もこの稜線の峠の中では一番判りやすい道形で、さてどちらへ降りようか。げきさかさんが大茂から登っているし、この前見落とした温泉神社の青面金剛が気になっていることだし、と大茂への道を下ってみます。

下り出しは緩やかにカーブして歩きやすかった道はすぐ急降下の荒れ道となり、石で埋まった枯れ沢に入ります。振り返ればさっきまでいた山稜があっという間に高くに見えて、沢には所々動物のヌタ場や厚い氷が見え、陽当たりの悪い斜面は霜柱でざくざくで、でも濡れているより案外歩きやすい。途中ケルンに石を積み増し、沢はいつしか作業道になり、思ったより早く寄日峠の登り口に着きました。

五 忍山林道に昔日を偲ぶ
大茂からは林道をてくてく歩きます。伊勢沢の橋を越え、何度見ても綺麗な小滝と深い淵を愛で、山水館とバンガロー跡はそそくさと過ぎ、湯本のすぐ下の温泉神社の石段を登ります。鳥居も、両側にかつてはお湯を汲み上げただろう井戸を持つ門も、すっかり風化して壊れています。「桐生市史」別巻に享保19年の青面金剛が紹介されてなかったらお寄りするのを躊躇する廃れ方ですが、本堂と薬師さまには新しい幣束が上がっていたので、いまでもお祀りする方がいらっしゃるのがわかります。
青面金剛は見ザルだけが彫られ、両側の鶏に突つかれて泣いているように見えて、優しいあにねこさんが気の毒がります。一猿は珍しいけれど、残念ながら年号がよく読めない。享保19年なら1734年、少し前には飢饉や疫病、天災があり、山に石仏や石祠が増え始める頃です。きりっとした吊り目のなかなかいいお顔。
戻り道でお湯を汲み上げた井戸に長い木を差し入れれば、濁った水があっさり全部飲み込んで波紋一つ立ちません。あにねこさんが映画の「リング」の話などするものだから、ちょっと怯えた代行はここで足が地につかずあえなく転んで、ちぇっ、せっかく山では転ばすすんだのに。長居は無用と石段を下れば、あら、転んだはずみでカメラを壊しちゃった。

林道をもう少し下ると支流が流れ込む場所に、かつて川にかかっていた丸木橋が落ちています。その向うの道が蕪丁へ行く道でしょう。今は低い位置に木橋が組まれ、道はよく踏まれているように見えます。
このすぐ下には川の中の大岩に石祠が祀られている。車で通過したときは全く気づきませんでしたが、これが高山彦九郎が弁天さまと言っている祠です。新しい金属パイプで階段が組まれ、渡ってみるとたくさんのお供えの跡があり、梅田の方達はほんとうに神仏を大切にしていると感心します。
ここにあった可愛い六地蔵は今は下の長泉寺山門そばに、蕪丁にあった猿神さまと行儀よく並んでいました。どちらも新しい赤い帽子と前垂れで、やはり大事にされています。

さらに下には山神宮の立派な祠や、林道工事のときに移されたのだろう道祖神の石碑もあり、振り返れば手前の山並みの向うに暫定名称・鷹の巣山がちょっぴり顔を出しています。満開の臘梅が香り高く、三椏が地味な白い花を下向きにつけ、なんだかミトコンドリアがざわざわ揺らめく。懐かしいような、切ないような、桃源郷を彷徨うような、歩く喜び極まれり、です。
工事中の川原を過ぎれば出発点の鷹林寺はすぐそこ。
みなさんもたまには車を使わず、ぐだぐだと山を呼吸して遺伝子の活性化でもいたしましょう。

(山名のための字名は「桐生市地名考」の島田さんにお聞きしました。山名・峠名は特定できたら適宜訂正いたします。
写真の最後の2枚はあにねこさんからお借りしました。)

1/27 訂正:余りに勝手な名をつけるものですから、眉に唾をつけねばとか、そんな名はないとか、苦情とお叱りが来ております。決めつけたつもりはないのになぁ。
本日梅田のダム側の地元の詳しい方複数にお聞きして606,6mのピークは「唐沢山」とご教示いただきました。行政上はともかく地元では沢の名からそう呼んでいるとのこと。
地図と見出しを少し訂正しました。本文はこの文章を追加することで訂正といたします。
只今他の山名も鋭意精査中。次回からは確定できない山名は地図には載せないことにします。(地元では沢には全て名が必要だけど、てっぺんの名は別に必要ではないそうです)

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