うかうか記3

あかね


某月某日 ばんな寺と呑龍さま−仏さまにはササエモン 

神社の異形のものとは全く趣が違うけど、太田呑龍さまで水盤を支える人を見たことがあるのを思い出し、八王子丘陵東側にお供するついでに呑龍さまとばんな寺、仏教方面を探索してみた。
浅学の身で単なる印象だけではあるが、仏教は後から入って来た分、人智に過ぎて今ひとつ面白くない。集団のありようを決めたがる神に対して人間の内面を規定したがる仏とでもいえばいいか、とりあえずお祀りさえすれば何をお願いしようが聞くだけは聞いてくれるずぼらな神に対してある程度の資格があればお願いどころか存在そのものを救済してやると大風呂敷を広げる仏といえばいいか。ま、仏教も色々で親鸞上人などはたった一度でもお念仏さえ唱えればそれでよし、仏がいるかいないかはわからないけど必ず救われるという無資格OKの間口の広さなのだから、救われるなんて大仰なことさえいわずに、どこかにおわすなにかに心は開く、くらいにしてくれたら山の神さまと同じだと腑に落ちるかもしれないのに、どこか言葉がたいそうで、お寺は神社以上に苦手である。

ばんな寺では香炉の下に異形のもの発見。ただ新しいものらしく支えている3体ともが同じ型で、なんだか愛嬌はあるものの表情に深みがなく、3本指と乳房があるらしいのが気になるが、白雪姫の七人の小人を連想するくらいの迫力なしの異形さで、いまいち言語中枢が刺激されない。天の邪鬼よりもっと小物のいたずら鬼が改心して、角を落とし今では一生懸命こうして香炉を支えて仏のお役に立ってますというところか。赤城の神さまのところで見つけた異形のものはどちらも神門の外にいたのに、山門の中に入っているところも改心した証拠。小物感が漂うので、過日久しぶりにTVで見たホリエモンにあやかってササエモンと密かに命名する。

呑龍さまでは手水所の水盤の下にたしかに4人の、これは修行中の僧だろうか唐子だろうか、しっとりと濡れながら薄く微笑んで瞑想している。型で作られていてたぶん2人ずつ同じ表情・姿勢なのだけど、信心深い人がよだれ掛けを差し上げたのだろう、それの濡れ方やかかる水の量の違いで、それぞれがほんの少し違って見える。こうやって修行に励み水盤の下の善行を重ね瞑想にふければ救われますという仏教奨励見本みたいで、あんまり感心できないひねくれ者の私をよそに、写真を撮る間にも何人もの参詣者が手を合わせていたので、近いうちに仏に昇格なさるかもしれない。それでもやっぱりこれは単なる装飾としての、あるいは仏教世界内部での役割分担としてのササエモンではあるまいか。いまのところお寺の「支える」ものは予定調和の内にあり、ダイナミズムや野趣に欠ける。

天の邪鬼は神さまのところではその神にまつろわないものの象徴だが、仏さまのところでは人間の煩悩を象徴しているという。本場の仏教はともかく日本では、神さまの序列化もほぼ終わり政事の中央集権が成立してから入って来た仏は、とにかく神さまのトップとさえ仲良くできれば布教は簡単、問題は人間のひとりひとりの信だけなのだから、天の邪鬼の意味付けも変わってくる。煩悩まみれの私など確かにこちらでも天の邪鬼の末裔に違いないが、ちょいと待ってよ仏さま、小さな欲望やささやかな願いを持つからこそ愉しみや喜びがあるわけで、もちろん苦しみだって引き受けてちまちま生きているそのことを煩悩と呼んで、それを踏んづけ改心させようなんてあんまりだ。救われたいと願う人に道をお示しになるのはそれはそれで崇高な敬うに足る御心だけど、救われたいとは願わない馬鹿な人間をやっつけちゃうのはいかがなものか。例えば自社の製品に絶大な自信があるとしても、それを飲み続けない人間はこんなに不健康である、初めっから飲まない人間はこんなひどい目に会うと強弁しちゃ、よく効く健康食品だって売れないだろうに。どうも仏さまは人の心をなんとかしようとおしつけがましい感じ、当たり前のことながらお説教がましい感じがしてやっぱりやっぱり苦手である。

ササエモンにあまりそそられなかったばっかりに、畏れも知らずにみ仏に文句をつけながら「支える」もの探索は赤城の奥宮をめざすのであります。早く春が来ますよーに。

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