十年以上前の新聞記事がある。桐生の地方紙桐生タイムスの1997年1月1日に掲載された。記事には“高沢川に架かる栗生橋。もちろん今の橋は木製ではない。むこうに見えるのが上菱の丘陵地で、ちょうど電柱の左側が「橋木山」だ”とある。

記事の本文には、桐生に合併される前の梅田村浅部(あさべ)の人々が明治の初年頃、度々栗生橋が大水で流され困っていたところ、普段山火事の消火などで浅部の人々の世話になっていた山持ちの修験者の北山内喜が浅部の人々に山を寄贈した。浅部郷の人たちは山から木を切り出して新しい橋をかけた。人々はいつしかその山を「橋木山(はしぎやま)」と呼ぶようになった。と書かれている。

下の私が写した現在の写真と比べてみて、変わったところが見受けられない。長閑な山間部の風景がそのまま残されている。橋もこの十年の間にかけ変えられた様子はない。梅田のこの里では時が止まっていたのだろうか。

山の名前を発見したとか、発掘したとかいうのは、その山で生活している土地の人にとっては大きなお世話なのかもしれない。我々が気づく前から橋木山は、はしぎやまと呼ばれ、土地の人々の生活の資を生み出していた。塩之宮神社からのびる道もしっかりとした、山に入る、山から何かを運び出すという意志を持って作られた作業用の道と思われる。

まあ、このくらいにして。もともとこの道は仙人ケ岳一人集中登山のコースの一本として、秋くらいに一度歩いてからご紹介しようと思っていた道です。この記事を知らなかったら橋木山には触れずに歩いてしまったでしょう。この記事を送ってくださった山の師hisiyamaさんに感謝します。概念図がわかりにくくなってしまいましたが、栗生橋と橋木山の位置関係を知っていただきたいと思い、90度左に回転させ、周辺も書きました。

ここからが橋木山の紹介です。桐生川左岸沿いの道は現在塩之宮神社近辺で山崩れのため通行止めになっています。桐生田沼線からだと少しわかりにくいかも知れませんが、今のところ、このコースでしかアプローチできません。桐生田沼線を梅田湖方面に向かって、梅田橋をわたり、瀬場橋入口で右折します。桐生川を塩之瀬橋でわたったら右折。最初のT字路を左折。そこがもう塩之宮神社の参道になっています。車は路肩の広くなっているところに駐車できます。塩之宮神社の左手奥に石祠が四つ、その少し奥に天照皇大神を祀った祠があり、その裏が登山口です。道は少し薮がうるさいところがありますが、春から秋なら問題ないし、今時でもそれ程イヤではないでしょう(かな)。道は尾根をからんでしっかりとつけられ、ところどころテープやペンキの印もあり、安心して歩けます。最初は植林帯、雑木林が混じってくると薮くさくなりますが、この時期は杉や檜の植林の中の方が好きかな。植林の切れ目にわりと大きな石祠があります。僅かに、ほんの僅かに隣の尾根が見えます。この尾根道、繁茂期には展望は皆無です。この先424.4mの船ケ沢の四等三角点にはRKさんの標高プレートがありました。笹久保山の下、萱野山の山頂と標高プレートとは三度目のご対面です。ここが橋木山と考えて登ってきたのですが、ここはピークではありませんでした。少し先にピークがあり、薄い踏み跡が、これを踏み跡といったら踏み跡協会の方から苦情のきそうな薄い踏み跡がピークに向かっています。登ってみると確かにピークです。前仙人ケ岳に向かう本線はこのピークを巻いていきます。とりあえずこのピークを橋木山と呼びたいと思います。山名のついた経緯からいうと橋木山とはピークを指していったのではなく、橋の木をとる山全体を橋木山と言っていたのでしょうが、我々山名愛好家としては、ピークに名前がなくて何の山ぞ。この先にはhisiyamaさんお薦めの紹石(つなぎいし)山神があったりするのですが、ちょっと薮がひどかったということで、ここで戻ります。

猛暑の橋木山へ 2006/8/5

全国で、北関東が一番の暑さの日、山名プレートの設置に橋木山に登りました。当会としては珍しく早朝7時の出発だったので、死ぬようなことはありませんでしたが。
晴れていればそこそこの展望もあるとわかりました。頂上付近まで行かないと風が通らないのでたっぷりと汗をかくことができました。
夏場でもその気になれば登れるんだなと。
桐生山野研究会の地図では石祠がもう一つ書いてあるのですが、発見できませんでした。

右下は山陰地方から来桐された初代会長を長七郎山にご案内したときの写真です。10年少し前のことなのですが、初代会長は長七郎山には登ったことがないと言っています。もうボケてしまったのかしら。これを見て思い出してくれるとよいのですが。

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