半年振りの川内の山です。2006年の夏、ひどい薮で登る勇気のでなかった石尊山です。入口が刈り払いされていて拍子抜けするほどあっさりと登路が見つかりました。桐生山野研究会の桐原の住人さんが『赤芝山脈縦走』の中でこの地域の詳しい記載をされています。引用すると
“(前略)三本木と棒ノ谷戸(がいと)を結んでいたであろう駒見峠となる。峠から踏み跡は標高点510mの頂きには登らずにいってしまうので、途中からその高みに登ってみよう。鳴神山から吾妻山への稜線が、一望のもとに見渡せる展望の素晴らしい辺りを探すと、桐生市基準点No.75がある。(略)
 この基準点から東南にのびる尾根を辿ると、200m程で石尊山に至る。ここは仁田山城址で、石尊宮を祀るようになって、石尊山と呼ばれるようになったのだろう。仁田山城は栃久保城ともいわれ、里見上総入道勝廣の悲劇をはじめ、桐生地方史を紐解けば必ず登場する歴史の舞台である。三堂坂(『山田郡誌』には、三堂坂、御堂坂の表記も見える。現在三堂坂と呼ばれている所には、不動堂、薬師堂、庚申堂がある)の集落からと、棒ノ谷戸の赤城神社よりの登路がある。山頂には、不動尊(『桐生市史別巻』に、「…石尊と呼ばれる大山祇(おおやまずみ)上の本地仏不動の尊像は…」とある。石尊とは、大山祇神であり、即ちイザナギノミコトの子供である。そしてその本地仏が不動尊であると考えられている。因に大山祇神は、山をつかさどる神である)が鎮座している。また珍しいのは、天下太平・国家安全を祈願した嘉永4年(1851)に造られた鐘があることだ。(略)
 基準点からゆるく下ると、ここは堀切とか空壕とか呼ばれる切り通しがある。これも仁田山城のそれには違いないのであるが、ここも三本木から三堂坂への峠であったかもしれない。わずかに急登すると520m峰である。(後略)”

桐生広域新聞に掲載されていた“再発見シリーズ桐生の山”で、この山を知りました。駒形大間々線を駒形方面に進み、白瀧神社を過ぎると左に不動堂があります。道の反対側に駐車スペースがあり、ここが三堂坂です。三つのお堂のある三堂坂(上の記述からすると、みどうさか)の案内灯籠のあるT字路を左折します。桐生広域新聞によると、案内灯籠は相川橋のたもと、川内三丁目、名久木の高源寺にもあるそうです。急な坂を登り、石垣にそって右折すると突き当たりが参道の入口です。
夏はひどい薮でとても奥に進む気にはなれませんでしたが、刈り払いされたうえ、落葉期なので、尾根づたいにつけられた急な参道も気持ち良く歩けます。八幡宮の石祠に至る前で左折、石祠が二つ並んだ分岐は右折。朱泥色をした鳥居までは道型は、はっきりしています。鳥居を潜ると倒木や落葉で、たまさか道型が不明瞭になりますが、もともとは立派な参道であった場所です。すぐに靴(サンダルではありません)の底がしっかりした道をとらえます。登っていくとまず青銅の梵鐘が目に入ります。梵鐘はいい音色でなります。ここは既に頂上直下です。梵鐘の奥に不動様、ひっそりと石祠が一つ。倒木で荒れてはいますが、その先が石尊宮の境内でしょうか、左に大天狗の石祠、右に小天狗、石尊宮の石祠が奥に鎮座しています。
ご参拝の方にはここが頂上でしょうが、山を歩くものは、たとえ雑木の中で展望が期待できなくても石祠の上に高みがあれば、それを目指さなくてはなりません。倒木を潜り、跨ぎ越え、何もない落葉に埋まった頂上に立ちました。じつはこの先、駒見峠に下り、棒谷戸に降りるか、赤芝山脈を歩き、十王尊への道を探ってみるかなどと予定していたのですが、駒形大間々線でハンターが屯しているのを見かけてしまいました。案の定、石尊山の北と南で銃声がしています。510mのピークでは不穏な獣糞を見かけました。夏と同様に引き返す勇気だけは十二分に持って山を歩く楚巒山楽会の一員です。赤芝山脈上の堀切跡だけを確認して往路を戻りました。桐原の住人さんの記述ではここも峠と記載されていますが、銃声と獣糞の不穏な空気の中を行く気にはなれませんでした。桐生市基準点No.75も発見できませんでした。

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