立岩山にまだ登れません。今日こそはと勇んで故郷を出たのですが、五十部(よべ)町側(尾根の西)では砂防堰堤の切れ目が見つからず、先日吾妻坂を登った地点から、鞍部を目指しました。低い尾根なので、鞍部はすぐそこに見えているのですが、猛烈な薮に阻まれて登れませんでした。人類では通過不能の薮です。吾妻坂から尾根づたいに行こうにも、薮が酷くて突入することが躊躇われたので、この尾根は縦走不能の尾根なのかも知れません。雪が2mも積もるような地域なら積雪期に辿る手がありますが。

で、砂防堰堤の内側を辿ってゆくと白い手摺のついた2条の階段を発見。登ると薄くはありますが、踏み跡のようなものが。五十部側にはイノシシ出没注意の看板があったので、獣道かも知れませんが、樹林の中を尾根に向かっています。踏み跡のようなものは尾根のすぐ下まで続いているのですが、もう一歩。最後は薮漕ぎで尾根に。ひと登りで岩の露れたピークに達しますが、薮も結構なものです。吾妻坂との鞍部に向かう尾根はやっぱり薮が凄い。鞍部まで達することができたとしても途中で立ち往生したかも。
立岩山に向かい、倒木も多い尾根を、跨いだり、潜ったり、跨いだりしながら進みます。緩く下って登り返すとピークに何やら建造物と石柱が。建造物は滅びかけたテラスで、石柱には萬物慰霊塔と刻まれています。隣に当山開発者中村元平、昭和39年とありました。昭和39年といえば、東京オリンピックが開催されたと現代史の時間に教えられました。どのような開発がされたのか想像もできない程、山は自然に戻っていました。立派な石柱を建てたのですから、開発した方にとっては誇らしい開発がされたのでしょう。煉瓦で何やら組み上げた跡、コンクリートの破片が辛うじて薮に抗しています。
歩けるのはここまででした。立岩山への尾根筋は頑強な薮です。立岩山は薮の彼方。

下山後、地元の方に山名を尋ねたら、中村さんの山ということでした。こちとら江戸っ子ですから、長々とした名前を呼べません。温気の頃には腐ってしまいますので、中村山ということで。
今福側から立岩山への登路もお尋ねしたのですが、山持ちの方が入山を拒んでいるということでした。立岩山はついに登ることのできない山になってしまうのでしょうか。

送電塔からは、薮も薄そうで、容易く登れそうなのですが、登っている姿が下を走る車から丸見えです。酔狂な姿を晒しながらというのには忸怩たるものがあります。できたら穏便に登りたい。

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