桐生山野研究会

城山(柄杓山)

桐生みどり 

* 城山(361b)は桐生城址があったことから城山(じょうやま)と呼ばれている。別名柄杓(ひしゃく)山と呼ばれ、桜の名所になっている。かつては檜杓山と表記されていたが、城址の地形が柄杓の形に似ていることから名付けられたので柄杓山が正しいとされている。桐生城は観応元(1350)年に桐生国綱によって築城されたと伝えられているが、桐生氏は江戸時代の戦記物にしか登場せず、桐生国綱が実在の人物であることは実証されていない。

 桐生氏と桐生城落城物語
 私たちが郷土史で習った桐生氏と桐生城落城物語は「関八州古戦録」、「上州坪弓老談記」などの軍記物にあるだけで、史実とはいい難い。同時代史料によると桐生氏ではなく、佐野氏であることが近年明らかになり、歴史家によって桐生佐野氏と呼ばれている。桐生佐野氏の菩提寺西方寺にある阿弥陀如来坐像の胎内に記された銘文には永正十八(1521)年に「大旦那佐野大炊助助綱」によって修復されたことが記載されている。佐野大炊助助綱は「関八州古戦録」にある桐生大炊助助綱と同一人物と考えられている。私たちが習った通説では桐生氏最後の三代の人物名は重綱、祐綱(助綱、直綱)、親綱であり、関八州古戦録では最後の二代を桐生大炊助直綱、桐生又次郎重綱と記されている。古文書では佐野大炊助助綱、佐野大炊助直綱、佐野又次郎重綱であり、順序は前後するが似たような人物名である。
 関八州古戦録巻九「東上野桐生家沙汰付黒川谷一戦事」「桐生重綱離本領事」に桐生城落のことが記されている。それによると、桐生助綱死後、佐野から重綱を後継ぎとして養子に迎えたが、重綱が佐野から連れてきた家臣を重用したため桐生氏譜代の家臣と対立が生まれた。元亀四(1573)年新田堀用水を巡って桐生氏と争っていた横瀬(由良)成繁はこの内紛を利用し、内通者を作って桐生城を攻め、桐生城は僅か半日の合戦で落城した。重綱は故郷の佐野へ落ち延び、桐生氏は滅亡した。
 この話は軍記物以外には記されておらず、それを示す古文書や戦死者の墓など遺物もない。桐生城落城は史実ではなく、上杉と北条の勢力争いで桐生佐野氏が負け方の北条氏に付き、由良氏に城を明け渡したのではないかと考える研究者もいる。軍記の表題「本領を離れるの事」と落城の内容が必ずしも符合しない。物語を劇的にするため、新田堀用水を巡って桐生佐野氏が由良氏と争った事実を基に創作した可能性がある。
 ただし、佐野又次郎重綱は佐野唐沢城主佐野昌綱の子で桐生城主佐野直綱の養子になっており、氏名は違っているが内容は軍記と一致している。「関八州古戦録」は享保十一(1726)年、「上州坪弓老談記」は宝永二(1705)年と序文にあり、百数十年後に史実を基に創作を付け加えて成立したもので今日の歴史小説と同じようなものだ。現在でも歴史小説の内容が事実と思い込んでいる人が多く、物語と歴史を峻別する必要がある。 
 なお、桐生文化史談会編「桐生佐野氏と戦国社会」には桐生佐野氏没落の約五十年後の古文書(新居家文書)に佐野又次郎重綱が桐生又次郎として由良成繁の本拠由良に居住していたことが記されている。佐野に逃げ帰ったはずの佐野又次郎重綱が由良氏の領内に居住していたのでは落城と辻褄が合わない。同書ではこの文書から没落後に佐野から桐生に名字を変更し、それが原因となって後世の軍記物では佐野氏が桐生氏と表記されたのではないかと推測している。さらに重綱の子供の桐生又次郎(襲名)が甲府藩士になったことが記されており、この文書が偽書でなければ桐生城落城物語は後世の創作である可能性が高い。(ただし、この時代は戦国の乱世が終わって身分制度が確立する時であり、仕官のため由緒ある家系の出自であると売り込む偽書の可能性を否定できない。)
 しかし、由良氏の時代も僅か18年しか続かなかった。その後、成繁の子國繁の代に北条氏の支配下におかれ、天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると常陸牛久に国替えとなり、桐生城は廃城になった。

 日枝神社から城山・岡平
 城山に向かう大半の人は城山林道を車で入り、駐車場から遊歩道を登っているが、山歩きが目的ならば下から歩きたい。おりひめバスの居館停留所から歩いて5分ほどの日枝(ひえ)神社が登り口である。居館(いだて)は桐生国綱が桐生城を築いた際に山麓に居住するために築いた館であると伝えられる。
 日枝神社は初めて桐生の名を名乗った桐生六郎が近江日吉神社分霊を祭祀したものと伝えられている。桐生六郎は平安末期の桐生地域における領主で北関東有数の豪族足利俊綱随一の臣下であった。治承五(1181)年、源平の戦いで平氏方に付いた足利俊綱は源氏に追い詰められ、臣下の桐生六郎によって殺されてしまった。桐生六郎は後家人に列せられようと足利俊綱の首を源頼朝の下に持参したが、逆に頼朝から裏切り者として処刑されたことが鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記されている。関八州古戦録「東上野桐生家沙汰付黒川谷一戦事」では桐生国綱は桐生六郎の子孫と記されているが、同じ桐生を名乗っていても桐生国綱は六郎とは別系統であると考えられている。これまでの通説では桐生六郎を「前桐生氏」、桐生国綱の系統を「後桐生氏」と呼んでいた。近くには桐生六郎が築いたとされる平城・桐生城跡(桐生市指定史跡梅原館跡)がある。日枝神社・梅原館が桐生六郎によって創建されたことと桐生城・居館が桐生国綱によって築かれたことには何の根拠もなく、後世の伝説に過ぎない。
 日枝神社には群馬県指定天然記念物のクスノキ群(4本)があり、桐生国綱が植えたものと記されている。遊歩道の標識に従って社殿の左から山道に入る。登り切って尾根上に出ると杉並木が現れ、雷電神社の大きな石祠がある。造立年代等銘文は刻まれていないが、ここまでの道は参道であり、古くから信仰対象として祀られていたものと思われる。左脇には別の石祠が祀られている。ここから道は細くなるが、はっきりしている。急斜面に付けられた階段状の道を登り切り、桜の植えられた斜面を九十九折りに登ると本丸跡に着く。ここが城山の山頂であり、桐生城址の石碑と四等三角点がある。桜の時期には大勢の花見客が訪れる。市街地よりも1週間ほど見頃が遅く、下から見上げると花期には山全体が見事に色づく。城址には尾根を切った掘り切りが遺構として残っている。本丸から二の丸を経由して三の丸に下ると城山林道の分岐となる。ここで遊歩道と分かれ、鳴神山と吾妻山を結ぶ稜線を目指す。はっきりした道が付いており、尾根の右側は檜の造林、左側は杉林になっている。やがて、雑木林になって標高537bの突起を越えて登り切ったところが主稜線上の岡平だ。ここから吾妻山に縦走して市街地に下るか、逆方向の鳴神山に縦走することもできる。往路を下って三の丸から遊歩道と反対側の道を下ったが、この道は下部で伐採木が道を塞いでおり、歩き難い。藪漕ぎに慣れない人は三の丸から遊歩道を城山林道に下った方がよい。バス利用なら城山入口停留所から桐生駅行きに乗る。
 なお、帰りに桐生佐野氏の菩提寺である西方寺に立ち寄ることを勧めたい。西方寺には群馬県指定重要文化財になっている木彫阿弥陀如来坐像と桐生市指定史跡になっている桐生氏累代の墓がある。阿弥陀如来坐像の胎内には佐野大炊助助綱の名が記された墨書がある。斜面に築かれた墓地を登ると中段に五輪塔が十五基並んでおり、桐生氏累代の墓と記されている。桐生氏十代とは数が合わないが、重綱、助綱など銘文が判読できるものが4つあると解説板に記載されている。桐生城主が桐生氏ではなく、佐野氏であることが明らかになっていることから桐生氏累代の墓という表記は正しくなく、桐生城主累代の墓と言い換えた方がいいかもいれない。だが、城主の墓と断定するには疑問が残る。今後史実が掘り起こされ、歴史が明らかになることを期待している。

 日枝神社(30分)城山山頂(40分)岡平(40分)山麓

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城山(柄杓山) 日枝神社
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雷電社石祠 頂上 本丸跡の碑
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岡平 桐生氏累代の墓
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梅原館址(梅原薬師)
鳳仙寺にある由良成繁の墓

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