足尾のカモシカ 足尾町粕尾峠から桐生市青葉台へ

 REI KESAMARU

1988年4月24日
 午前4時58分、粕尾峠を出発する。同行する当会主力メンバーで事務局長でもあるM氏は、風邪をひいて体調が思わしくなく、とりあえず根本山まで同行するとのことであった。峠の句碑脇から歩を進めると、笹や各種の草の上に、昨夜に降ったらしいミゾレが白く積もっている。まだ気温が低いので足の濡れる気遣いはなく、最初からかなりのピッチで飛ばし、3分ほど進んだ地点から右手の尾根に駆け上がる。この踏み跡をそのまま進んでしまうと道は消えてしまい、結局ロスタイムとなってしまうことが分かっているからである。薮の痩せ尾根を辿り、右折して広くなった斜面を下れば首欠け地蔵のすぐ手前である。この地点は旧秋山路、地蔵岳、粕尾峠、久良沢、その他への分岐ともなっている。時計を見ると、ここまでたった10分足らずである。かつて、この周辺の地理に関して納得したいがために十数回も歩いたことが不安なく、そして速く歩けた原因でもあろうか。
 片手に持った新兵器、マイクロカセットレコーダーに時間、及び万歩計のカウントを吹き込んで、ためらうことなく旧秋山路に進むが、この小径は林業関係者が刈り払いをしているらしく、いつ来ても歩きやすくなっている。但しそれもほんの少しの区間で、炭焼き窯跡から先は背丈ほどの笹に覆われ、結局古き良き道も今では失われてしまっている。この辺りから回数多く足を運んだ経験が生かされてくる。炭焼き窯跡を右に見て、正面の笹の斜面に突入する。そう、それは正に突入である。身の丈以上の笹の密薮なのだから…。しかし、要領を以って本分とする桐生山野研究会のメンバーは、すぐに上部に続く獣道を発見し、きちんと、そして有難く利用させていただいた。
 飛び出した場所は、地蔵岳の南約250mにあるピークから東方面に派生した尾根がやや広くなった地点である。ここは以前からクマのテリトリーとなっている場所であるらしく、数年前には二十本以上もの木にクマの爪痕が残されていて、度胆を抜かれたことがあった。そして今回も数年前に負けず劣らずの発見をしてしまったのである。それもやはりクマの仕業であった。5、6本の木の周りの地面が、コンパスでひいたように見事にまあるく抉られていたのである。つまり前足を木にかけて、そのままの状態でクルクル回った跡であったのだ。多分テリトリーを知らせるための「爪痕」をつける作業の名残りでもあるのだろう。
「いやだなー、こんな山奥で本物に出会ったらど−しよう」と私。
「イャー、北海道のヒグマなら別だけど、ツキノワグマなんかちっとも怖くない。可愛いもんだよ」とM氏。
 思うに、私がクマを恐れるのは、私の脳細胞の中に昔の、たぶん縄文時代の頃にご先祖様がクマ狩りに出かけてゆき、返り打ちにあってこっぴどい目にあった記憶がインプットされているからではないだろうか。M氏の場合は、ご先祖様が東北地方にいたという(?)熊襲だったのではなかろうか…。
 静かに、そして速やかにこの尾根を下り、林道に降り立った。粕尾峠からここまでがたったの30分弱。これから先の林道は長い距離がある。但し、ほとんど水平だからピッチは上がる。走るが如くにガンガンぶっ飛ばす。地図上では県界尾根に添って破線が続いているのだが、林道ができている現在ではそのほとんどが廃道化し、今やほんの少しの部分が残されているのみである。それでもかつては尾根通しを頑張って辿ったこともあるのだが、深い薮、深い笹に覆われて、往時の面影も今ではすっかり失われてしまっている。右手後方には渡良瀬源流の山々が望まれる。まだまだカモシカ山行も序盤戦、ほぼ平坦な林道歩きと相まって、懐かしき山々の話が弾む。桐生山野研究会のメンバーは、足尾の山を語るとき、限りない心の安らぎを覚えるのだ…。桐生から続く足尾、日光の山々は、心の故郷でもあるのだから…。右手には、沢入の駅まで2時間以上もかかる長い林道が分岐する。冬になるとハンター達が四輪駆動車で登ってくる道である。動物たちを殺すために…。私は、ハンターの意見は知らないし知りたくもないが、殺される動物達を思うとき、なんともかわいそうで仕方がない。ハンターも一度自分自身に銃が向けられて、ぶっぱなされる恐怖を味わってみるといいのだ。動物も植物も、実は自分自身なのだ、ということを悟って欲しいものだ。現実に、尾根を歩いているときに、散弾がパラパラと降ってくることもある。低山薮山ハイキングに出掛ける際には、護身用にショットガンを持ちたいと思っている。
 左の旧道に入ると、道の上下に自然にできた岩穴がある。ここも数年前に熊の生息を確認したことがあったが、熊襲がついているから大丈夫。ピッチをあげると左手に林道が近づいてきた。これは前日光広域基幹林道で、初めてこのコースを歩いたときに、うっかりとこの林道を下ってしまい、粟野町から粕尾峠を越え、足尾駅までの長い距離を歩かされた思い出のある林道である。やがて道は登りとなり、登り切った地点が小さなコルとなっている。時刻は6時23分。初めての休憩とする。このコルは私の大好きな場所で、小さくて、ひっそりとしていて、いつ来ても心が和む所だ。右手の尾根の上まで登れば、見晴しもすこぶる良い。ここにはかつてハイキングコースのものと思われる立派な標識があったことがある。私が初めてその標識を見たとき、すでに朽ちていて、今はその痕跡さえも見当たらないが、このような低山薮山を歩いた先人に、敬意を表したい思いでいっぱいだ。
「Mさん、この辺りで朝飯にしませんか?」
「イャー、まだ6時半だからもう少し頑張りましょう。十二山あたりでいいんじゃないですか?」
 それもそうだなと、アメ玉を口に入れ、宝生山(ほうしょうさん)へと向う。椀名条山分岐へ至る間は、県界尾根を栃木県側にトラバースする道である。この辺りにくるとミゾレが溶けだして、ズボンや靴の中までもびしょぬれとなってしまった。当然裾さばきも悪くなり、先を急がねばならないカモシカ山行にとっては、こんな些細なことでも気になることを改めて思い知ったことだった。但し、この区間は栃木県側が皆伐されており、解放感と遠望は抜群であった。椀名条山分岐を過ぎ、氷室神社は今回は覗かず、一気に宝生山へ駈け登る。途中に古き指導標があり、いつも気にしているのだが、今回は一切の雑念を振り払い、意識のすべては目的達成に向けねばならない。
 三角点にて、タイム、カウントを録音し、新緑浅い山頂を後にする。辿る山道もツツジの花にはまだ早く、やさしい緑に彩られている。スミレの類いが少しだけ春を告げていた。やがて道が南側を巻くようになると、熊鷹山と十二山根本神社との分岐である。腹が減ってきたせいか、胃がかすかに痛みだし、息もやや荒くなってきた。地図上では約625m、カウント数×歩幅では約800mを8分で歩き、十二山根本神社に辿り着いた。時刻は7時41分。ここでゆっくりと朝食にする。
 ザックを開けて弁当を取り出したとき、少し誤算があったことに気がついた。今日のカモシカ山行は、M氏の調子が悪いから、当初一人で行ける所まで行ってみようと計画していたものであり、その後「行ける所まで同行する」とM氏が加わったものなのである。当然、粕尾峠から桐生市の青葉台まで一気に歩く気もなかった。したがって食料も余分にはなく、握り飯五個とソーセージが一本、アメ玉が一袋、水に至っては500mlだけしか持ってこなかったのである。M氏に至ってはもっとひどくて、小さなパンを複数個とアメ玉と水は1リットル、そしてどういうことなのか良く分らないが、コロッケを持ってきていたのには驚いた。私も内心では、『M氏が下山するといった時点で一緒に下りてしまおう』と思っていたので、握り飯を二個分けてあげた。お返しにいただいたパンとコロッケを食べていると、「タタタタタ…」と素晴らしい音が聞こえてきた。ケラの仲間が木を叩いている音である。「イャー、素晴らしい音だな…」と、M氏。これも記録の内と、テープに吹き込む私。
「いつもならまだ寝ている時間だよ。このぶんなら三境山か、うまくいったら座間峠まで行って、そして下山だな」
『やれやれ、三境山で下山すると言ってくれるといいんだがな…』と、軟弱な私。
 次の目標である根本山は、体力のセーブを一番に考え、トラバースルートをとることにした。根本山頂はぜひとも踏みたい地点なのだが、先を考えると、初めての試みとしては安全策をとらざるを得ない。左手に、熊鷹山、丸岩岳、野峰と続く桐生川左岸の山並を望みながら中尾根分岐点に到着。即、カウント、時間を録音し、山頂に心を残しつつ歩を進めるが、この山域を初めて訪れたのが中尾根からの根本登山であってみれば、25年も前のことが懐かしく思い出される。
「この尾根は、足尾に続いているんだよ」山頂で出会った一人の登山者は、優しく教えてくれたものだった。もちろん足尾町そのものは知っていたのだが、それ以来、別の形での「足尾の山」が自分の心の中に育ってきた。「足尾の山」を思うとき、いつでも心に和みを覚え、励みにもなってきた…。
 実際に根本山から足尾に抜けたのは二十代になってからだったが、現在に至るまで私の登山は「足尾の山」と共にある。そして、志を同じくする「桐生山野研究会」のメンバーとも知り合い、今回の山行が計画されたものであってみれば、なんとしても成功させたいものである。根本神社方面とも分れ、山腹のトラバースルートを辿るが、ここは以前ほどには歩かれていないようで、薮も繁り、道も一部不鮮明となっている。倒木を避けた辺りから道を見失ってしまったが、案ずることもなく、すぐに郡市境界尾根に至り、三境山に向う。これから先は薮尾根となるのだが、歩く人も多くなったせいか踏み跡はしっかりしている。もし、今回の山行が夏であったなら、枝葉が繁り、とてもピッチをあげて歩くというわけにはいかなかっただろう。踏み跡は一度尾根を外れ、根本沢の枝沢上部を横切る。このコースにあっては貴重な水場である。涸れていることもあるが、少し下れば水は得られるであろう。この先でも道は不明瞭になるが、右上に上がれば尾根道に出られ、ひたすらに三境山をめざす。
 この辺りから胃の痛みがとみに増し、足腰の疲れも感じられるようになり、前途が俄然不安になってきた。胃の痛みは、普段は仲良くしている潰瘍悪化の兆しである。すきっ腹に加えてのオーバーワークが原因である。とにかく三境山に辿り着き、腹を満たさねばならない。三境山頂に到着したのは9時56分。約22kmを5時間であった。ザックを投げ出してタイム、カウントを記録し、どっかとばかりに腰を下ろす。貴重な握り飯を水で飲み込むようにして食べる。ソーセージも食べようとしたが、油分にむかついてあまり食べられなかった。あとのカロリー源としてはアメ玉があるだけ…。一服していると、M氏はそばの石祠を調べはじめた。なんと余裕のあることよ…。
「イャー、まだ10時だよ。これなら座間峠まで一緒に行って、神土から足尾線で帰りますよ」
 帰りたいのはこちらの方であるが、疲れも幾らか回復したので出発することにした。ここで休んだのは結局18分、潰瘍君にしてみればとても休んだ気分にはならないだろうが、もとより簡単に済むような今回の山行ではないのだ。頑張るっきゃない!三境山を下降する道は大きな岩の間をぬって続いており、この山域にあっては珍しい景観を呈している。太古の火山噴火の跡でもあるのだろうか。興味をそそられる場所である。三境、残馬間の最低鞍部にて休憩。岩稜に映えるが如くにツツジの花が二、三輪咲いていた。ここに初めて来たときは、キスゲの花が咲いていた…。思いでは花と共にあり…。残馬山頂までは、小さなピークを幾つか越えなければならない。この辺りの登りから、急速に足が重たくなってきた。10m歩いては立ち止まり、枝につかまっては歩を進めるような有り様になってきた。シクシクと胃は痛むし、とうとう難関が訪れたわけである。三境、残馬間3.54kmは1時間と13分であった。以前に訪れたときは踏み跡も不明瞭で、この区間は時間の予測が立てられず、心配していた所であった。胃の痛みと足の重さをだましつつ、それでもかなりのタイムで到達した残馬山頂に、それこそ倒れ込むように座りこむ。
 しばらくの時間は、息を整えるために使う。水を少しばかり飲み込んで、貴重な握り飯を食べる。疲労のためか、あまり食欲もないのだが、コースはようやく半分といったところ、後半戦を考えると無理にでも食べざるを得ない。水を少し飲み、気持ちも落ち着いてくると欲もわく。時間もまだ11時40分、とにかく頑張って、次なる目標地の座間峠に向うこととする。一旦大きく下ってから岳山に向っては、長く辛い登りであった。改めて残馬山の山体の大きさを思い知らされた感じだ。振り返ってみると、そのボリュームに圧倒された。渡良瀬山塊の名峰の一つでもあろうか。岳山の肩には12時33分に到着した。ここからは下る一方なので、体力を回復させながら進む。登りでは脚力の衰えもあって思うように足が進まないのだが、下りや平らな道ならば「歩け、歩け」のトレーニングが生かされて、5kmを40分のペースが維持できる。話をしながら歩いていると、ひょっこり座間峠に飛び出した。12時44分であった。ここまで約30kmを8時間である。一時間当たり3.75kmのペースであった。
『これでやっと神戸に下りられるのか…』ほっとして一服していると、M氏が意外なことを言い出した。
「ここから鳴神山まで、2時間半で行ける。もし3時間かかったとしても、4時には着ける。鳴神山まで行ったらあとはこっちのもの、暗くなっても歩けるし、最悪、鳴神山から下ってもいいんだ…」
 四十となった体は、かつてないほどに疲れを覚えるのだが、確かに鳴神山さえ落したらあとはこっちのもの、愛する桐生の山を歩き続けてきたものの集大成としての今回の山行、最後まで頑張って歩き抜いてみようか…。そろそろ出発しようと思っていたら、今回初めて行き会う登山者が峠に登ってきた。それも一人や二人ではなくて、団体客だ。千葉からマイクロバスでやってきて、これから鳴神山に向うという。見たところ、山に慣れていない人も多くいるようだ。M氏の説得でここで帰ることになったらしい。団体での時間を考えてみると、確かにその方が良い。他人の意見に柔軟な対応を見せたリーダーはなかなかできた人物のようだし、見習いたいものではある。
 13時、その人達に見送られて、こちらは正反対の行為を行なうために出発する。安全第一を考えなければならない登山もあれば、体力の限界を極めてみたい登山もある。われわれの今回の行為は後者に属するが、幾つかの裏付けを伴って実行されたものである。まず第一に、この山域に関しての登山歴があげられる。我々のグループは、ほとんどの者が20年以上も桐生、足尾、日光の山々に親しんでいる。今回のコースも、区間を区切ってではあるが何度も何度も歩き、熟知しているのである。そして、そのことで決して驕ることなく、常に新鮮な態度でこの山域に接しているのである。第二には、登山という行為におけるトレーニングがあげられる。こと私に関していえば、毎日ではないにしても、早朝に渡良瀬川畔にある桐生市のサイクリングロードで、速歩のトレーニングを重ねている。5kmなら40分、10kmなら1時間と10分前後をコンスタントに維持できるよう、鍛練している。鍛練している割には案外弱く、登りは変わらずノロノロしている。鍋足沢の頭の手前では、腰を下ろすと同時に横になってしまい、そのまま前後不覚に眠り込んでしまった。しかし、それもわずか数分のことで、M氏の冷たい声に起こされて、またカタツムリの行進は続く。何度も辛い登りを繰り返し、赤芝分岐にようやく辿り着いた。15時16分である。
『ここさえ頑張れば、ここさえ頑張れば…』ただそれだけを唱えつつ、休むまもなく仁田山岳への急登にチャレンジしていった。
 鳴神山への最後の登りに取りかかったとき、不思議なことに気がついた。体が軽くなっているのである。足は相変わらず重たいし、急ぐことはできないのだが、今までの辛さと違って何かが楽になっているのである。先が見えたことによる精神的なものなのか、体が疲労に馴れ、それに応じたペース配分がいつの間にかできてしまったものなのか、山頂には20分で着いてしまった。
 山頂の桐生岳で時間、歩数カウントを録音する。ゆっくりと休みたいところだが、ここではあまりにも風が強い。雷神岳神社まで下りて食事休憩とする。食事といっても、最後に残った握り飯一個を食べるだけ…。
「とうとう、ここまで来てしまったねー」
「イャー、ここまで来てしまったからには石にかじりついてでも青葉台に行きましょう。絶対にやれますよ」
「そのセリフ、もう一度いってください」と、テープレコーダーに録音する私。
 実際、ここまで来てやめる訳にはいかない。10分後、やる気になった二人は、一路青葉台目指して出発する。湯山沢の頭、花台沢の頭を過ぎると、スミレの類いが多く見られるようになってきた。根本山以北ではほとんど見られなかったが、ここまでくると陽気が違ってくるのだろう。山に咲く花の好きな私は、そこに咲く花によっても今日の行程の長さを知らされる思いだった。三峰神社には16時34分着。3分休んで金沢峠には16時52分着。鳴神山からここまでは標高を下げてきたが、ここから吾妻山まではまた辛い登りの多いコースとなる。その手始めが、金沢峠から大形山への登りである。歩幅は今や登りでは40cmとなってしまっているのだが、ひたすらマイペースで進む。大形沢の頭まではずいぶん時間がかかったような気がしたが、13分であった。岡平、西方寺沢の頭、鳳仙寺沢の頭を過ぎて、480mと記入してある標示板で休憩。5分の休みの間にM氏から水を一口貰う。私の水はとうに終わってしまっていたのである。アメ玉をガリガリかじって、せめてものエネルギー補給を計り、最終段階に向けて出発とする。村松峠は17時56分、女吾妻(堂所山)には18時11分、そしてとうとう、本当に最後の登りとなった吾妻山に向う。
 18時17分、山頂手前で美しい日没を見る。我々の今日のフィナーレにふさわしい夕焼けであった。
「ハァー、ハァー、着いた、着いた、6時19分吾妻山到着」
「イッャー、ついにきたか…」
「やったー、やったよ…」
 あとは二人ともたいして言葉にもならず、ただただハァ−、ハァーの連発。息を整える間、歩いてきた山並を振り返ってみるが、まだあまり感慨も湧かない。ようやく落ち着いて、桐生の町を見下ろす…。
「こうしてみると、この街並もなかなかいいんだな−」
「山の間にはさまって…、山紫水明の街ですよ…」
 ひとしきり桐生賛歌が続く。桐生に生まれ、桐生に育ち、桐生の山(自然)を愛した。そんな育ち方をした二人にとって、今回の山行は当然帰着する結論であったのかもしれない。辺りが薄暗くなってきた。下山も急がねばならない。
「イャー、よくぞ来た」
「休憩終わり、6時24分出発」
 青葉台には18時54分に到着。下山途中に見た市街地は、明かりがともり、薄暮の中に輝いていた。固い握手が、今回の山行の最後の締めくくりであった。

歩行時間 12時間14分 総距離48.05km(EP436を使って換算)


桐生山野研究会発行「回峯」第3号 1990年より



カモシカ山行とは 長い距離を 早く 長時間 歩く山行のことで、そこに最小限の装備とか、夜も寝ないでなども加わるらしい。聞くだに恐ろしい。
加茂鹿之助という方が提唱したので、かもしかとなったということを当会の初代会長に聞いたことがある。そんな嘘みたいな話と聞き流し、動物のカモシカのように山を歩くからカモシカだと思っていた。だが、今回調べて見ると、加茂鹿之助は登山家の中村謙氏の筆名で初代会長のいったとおりだった。
桐生に戻って、一人で山登りをしていた頃、この「回峯」3号が、地元夕刊紙の桐生タイムスに取り上げられ、仲間に入れていただこうと思って桐生山野研究会のどなたか(電気屋さんをやっていた)から入手したのだが、こんな山登りをする人達には、近づかないに限ると、敬して遠離っていた。この記事を採録するので文字を入力していながら、桐生に近づくにつれて旧知の山々が出てくると山歩きの実感が湧き、後半では二人の登山者を「もう少しだ、頑張れ」と応援していた。
私も、若気の至りで一泊二日の山行を夜行日帰りでする程度の軽いカモシカはやったことがある。当会とは正反対の山登りだ。当会は、なるべく車で、ゆっくりと、短い距離を選んでの山行を目指している。HPを開設したばかりに、こんな人達とお近づきになってしまうとは思わなかった。
この記事には前半戦がある。私も疲れてしまったので、疲れがとれたら採録したい。 
HPに採録するにあたり、言葉遣いの統一と段落づけをさせていただいた。ご了承願う。緊張感のない概念図ともいえない略図は私が作成して挿入した。       楚巒山楽会代表幹事
桐生山野研究会の方から桐生タイムスではなくて、桐生広域新聞だろうというご指摘があった。桐生タイムスだと思ったんだけどなぁ〜。

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