雨の禅頂行者道 日光歌ケ浜から足尾町粕尾峠へ

 REI KESAMARU

 前回のカモシカ山行に成功し、胃の痛みもおさまってくると、前回の山行中に話が出ていた計画に対する意欲が湧いてきた。それに拍車をかけたのがM氏の言葉である。
「イャー、中禅寺湖から粕尾峠までだったら楽勝ですよ。10時間もあったらお釣りが来ますよ。それに向うは道もはっきりしているし、日光修験の遺物もたくさんあるから、写真でも撮りながら楽しめますよ…」しきりに禅頂行者道であることを強調する。カモシカ山行こそ現代の回峰行であると、信じているわけではないのだが、日光修験の世界には私も興味がある。峰を一所懸命に歩きながら、何を求めていたのだろうか…。歩き続ける果てに、一体何が待っていたのだろう…。往時の禅頂行者の考えには、特に興味を覚える。カモシカ山行を続けているうちに、一つだけ得た結論がある。「彼ら回峰行者も、結局のところ山が好きだったんだね…。おれたちと同じく、自然の中にその身を置けば、気分が良かったんだよ」

1988年7月17日(日)雨
 前回同様、出発点まで家人に送ってもらう。連日の雨である。今朝も小雨。晴れる日曜を待ってはいられないから、M氏と相談のうえ「小雨なら決行」となった。
 午前5時35分、中禅寺湖畔の歌ケ浜を出発する。最初からカッパ着用である。ガサガサ、ゴソゴソ歩くたびにうるさい音がする。そしてこの音は、とうとう一日中ついてまわることとなったのである。茶ノ木平高山植物園までは、緩やかな登りが続く。朝まだきの茶ノ木平は人影も全くなくて、薄気味が悪いようだ。茶ノ木平から遊歩道を辿り、明智平分岐までは10分。とたんに道が悪くなる。しかし、ササの繁った不明瞭な山道は短い区間で済み、あとは明瞭な道となる。日光開山の祖、上道上人の遺徳を慕う後世の修験者たちによって歩かれた華供峰(はなくのみね)のコースを、今こうして歩くことにいいしれぬ感慨を持ちながら進めば「篭石」である。ここには「日光修験護峯先達会」なる碑伝(ひで/禅頂札)が立ち木に打ちつけてあった。上道上人の遺徳を上人の日光開山後一千二百年たった現在でも慕っているのかどうかは知らないが、少なくとも華供峯コースを現在でも修験の場としてとらえ、歩く人がいるということに驚かされる。
 道は下りながら続く。送電線の鉄塔を過ぎて細尾雨量観測所にさしかかったとき、何かの気配を感じた。鹿であった。大きな鹿が金網のそばに立ってこちらを見ているではないか。見つめあう一瞬。サッと身を翻していってしまったが、大きくて濁りのない、美しい目であった。下り切れば細尾峠。ここで朝食とする。前回のカモシカ山行では、すきっ腹で無理をしたことによる胃の痛みに泣かされたので、今回はしっかりと食べる。小雨が降り続いているので傘をさして食べている20分の間、車はたった一台も通らなかった。日足トンネルができたので、ここを通る車も少ないのだろう。
 続いては薬師岳への登りである。すでにズボンは発汗によりビショビショに濡れてしまい、裾さばきの悪いことこの上もない。当然足の運びも重くなり、登りになると膝が痛くてしかたがなかった。30分の登りで薬師岳の肩である。M氏のリクエストに応じ、山頂まで往復することにした。そこには古い石祠があって、余裕のM氏は早速熱心にメモをとりはじめた。私はただ眺めていただけだが、修験者の名も刻んであったようである。天気は相変わらず小雨模様である。眺めの全くない山頂を辞して続く山道は、ツツジの頃ならさぞかし美しいプロムナードとなるのであろう。「不動明王」を過ぎると「三ツ目」となる。ザックを置いて夕日岳を往復してきたが、もちろん眺めはないし、なぜ「夕日岳」なのか理解しにくい山頂であった。続く地蔵岳にも古い石祠があり、記憶が正しければ、天保八年と修験者の名が刻んであった。M氏のメモは熱心に続き、修験道の話がポンポン飛び出す。かつて、ここを往来した回峰行者の霊が乗り移ったかのようである。
「ハガタテ平」、「竜の宿」、「唐梨子山」、「大岩山」を過ぎ、話が金剛童子に変わった途端、「金剛童子」に飛び出した。なんだか話がうますぎるな…。石祠の前後左右を良く調べ、記念写真も撮影する。出来上がった写真にはM氏と共に「金剛童子」が写されているはずであったが、現像されたフィルムは光がかぶっていて使い物にはならなかった。行者岳、行者平を過ぎると道は一旦尾根を外れ、林道支線を辿るようになり、古峰ケ原へと導かれていった。歌ケ浜から古峰ケ原まで約20km。所要時間は7時間強であった。1時間あたり3km弱しか進めないのは一にも二にも雨のせいである。風が横なぐりとなってきたので、峠にある休憩所の風下を選んで昼食にした。昼食はレトルトの赤飯をメインとしたので、腹はしっかりと出来上がった。今回の距離は短いので30分も休み、再び雨の中を出発する。
 三枚石までは緩やかな登りが続く、雨の中を歩き続けた疲労に加え、満腹感も手伝って眠くて仕方がない。歩きながら眠ってしまったほどであり、足を道から踏み外してハッとして目を覚ます。とうとうベンチを見つけて座りこんだまま眠ってしまう。M氏に何と言われて起こされたのかは覚えはないのだが、つめたーい言葉に起こされて、再び歩き始めれば三枚石である。ここは十七、八年前に来たことがあり、昔にくらべるとずいぶんと人手が加わっていて、いかにも俗化された雰囲気がする。奥の院は鍵がかかっており、中を覗けなかったのが残念であった。
 方塞山には14時15分着。ここまでくれば山道はあと幾らもない。鉄柵に沿って十数分で県道に出た。ここでゆっくりと休めば、あとは通洞駅までの車道歩きだけである。駅まで13.4kmを2時間39分で歩き切ったが、途中M氏が足を引きずっていたのが印象的であった。

歩行時間10時間26分 総距離37.83km(EP436で換算)

おわりに…
 かくして中禅寺湖畔の歌ケ浜から桐生市青葉台まで約85.88kmのビッグル−トは、二回のカモシカ山行で結ぶことができた。パートナーとして弱気な私を絶えず力づけてくれた当会事務局長のM氏には、心より感謝申し上げたい。
 今後の課題としては、この85.88kmを24時間以内で歩き切ることができないものだろうかと考えている。また、日光・足尾山系にはカモシカ山行に適したルートも幾つか考えられる。M氏も燃えていることでもあり、その結果については会報「回峯」第4号に執筆していただけるものと思う。
 振り返ってみると、従来低山薮山ハイキングの対象としてとらえられていたこの山域が、じつは素晴らしいスポーツフィールドとしての可能性を秘めていたことに新鮮な驚きを感じている。歴史を訪ねる山旅によし、花を訪ねる山旅によし、今後もこの山域を色々に楽しんでみたいと思っている。


桐生山野研究会発行「回峯」第3号 1990年より



蛇足になるのを恐れず、書かせていただく。1990年に「回峯」第3号を入手して以来、ず〜っと、ず〜と「回峯」第4号が発行されるのを待っているのは私だけでしょうか。17年か。今回の略図も私。      

 楚巒山楽会代表幹事

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