鍋足沢の頭から要害山 赤芝山脈縦走
 私の住んでいる大間々町は、渡良瀬川が山地から関東平野にでる喉元のようなところで、渡良瀬川扇状地の要になる地である。町内には「おぎのめ」と呼ばれる家があるそうで、つまり扇の目でありその家が扇状地の要であるそうな。大間々の市街地は、この扇状地にできた河岸段丘の上に広がり、下田川と小平川に沿って集落がある。耕地もこの人家のある辺りに限られ、あとは山林原野である。この山林原野は、大間々町総面積4,793haの7割近くなる。従って、山には事欠かないのであるが、桐生市の、根本山・鳴神山・吾妻山のごとき著名な山はない。
 さて、今回紹介するのは渡良瀬川左岸の山々の末端部で、大間々町に派生している尾根である。
 実は、座間峠から鳴神山の間で、尾根は三分されるのである。まずは主脈である鳴神山から吾妻山への尾根は、桐生川右岸の山々であり、桐生市に属す。
 次に、座間峠から(この辺で国土地理院発行の沢入・上野花輪・大間々の二万五千分の一の地形図を参照してください)、南下して西に向かうようになりしばらく行くと、勢多郡東村と山田郡大間々町と桐生市の三市町村が接する所がある。通称鍋足沢の頭のすぐ手前である。この接点から北寄りに分岐し、1054m峰、1064m峰に続く山田郡と勢多郡の郡界の尾根がある。これは大間々の山といってよい。
 ところで、この分岐に登ってくる手前に平坦な気分の良い広場がある。内緒の話だが、そこは熊の遊び場になっていて、糞はもとより木には爪痕があり、落葉の期間に頭上を見上げれば熊の棚がいくつも見つかる。山仲間は、熊に「こっちにくるな」といわれたそうである。
 話がそれたが、要するに、熊の広場から登り着いた地点で、左折すると鳴神山への縦走路となる尾根であり、右折するとこの尾根に乗ることになる。厳密にいえば、この尾根こそが渡良瀬川左岸の山々となる。この尾根についてはまたの機会にゆずる。
 さて、次に分岐するのが今回の目的の尾根である。鍋足沢の頭を過ぎ、縦走路を鳴神山に向かって進み、地形図「大間々」に入ると、973m峰の手前で桐生市と大間々町の境界線が、西に方向を変える地点がある。ここから尾根が分岐し、尾根上が桐生市と大間々町の境界である。
 この尾根は、『山田郡誌』(以下『郡誌』と略す)によれば、鳴神山脈の一つで赤芝山脈となる。『郡誌』には、山脈の山岳として以下の山名を掲げる。
  赤柴山  720.0m
  十二山  797.2m
  駒見山  583.9m
  三本木山 400.0m
  雷電山  460.0m
  角山   360.0m
  岩久保山 394.1m
  要害山  340.0m
 この内、角山・岩久保山の二山については『上野国山田郡村郡誌』からの引用文を載せ、要害山については史跡金石文参照と注記し、説明を加えている。

 さて、分岐から要害山をめざすことにする。分岐には「山一」の石柱がある。地形図で見ると、この分岐あたりが標高980m程、要害山がおよそ270mで、700mばかりの下りとなる。直線距離にして約10kmであるが、鳴神山から吾妻山への縦走路のようなわけにはいかない。分岐から少し下っていくと、イヌブナだと思われる巨木のある平坦地に着く。ここも熊の遊び場になっているようである。さらに下ってゆくと、桐生市基準点No.128がある。この沢は、昔はかなり良いワサビがとれたそうで、イバラを掻き分ければその形跡が見つかるだろう。しかし、イノシシが沢ガニでも食べにくると見えて、かなり荒れている。何年か前に伐採が行なわれたと見えて、イバラが凄く入る気にはならない。
 樽ケ沢を左下に見ながらさらに下ると、大きな松が四本ある地点で、尾根が二つに分かれるが、右の尾根に進路をとる。750mのピークを過ぎると、やがて地形図の赤芝の文字の北に、730mの地点が二か所ある辺りに辿り着くのであるが、ボケーッとして山を歩いているせいかどんな所だったかまるで覚えていない。しかし標高からすると、『郡誌』にある赤柴山とはこの辺りをさすと思うのだが、判然としない。
 ここからまた下り、踏み跡が不明瞭になるが、右手西よりに下って行くと鞍部に着く。そこが十二峠である。鞍部から10m程先に、正面に「十二山神」、左右に「小平中、大正十四年一月吉日」と刻まれた石祠がある。
 峠に立って思うことは、人が移動の手段として、歩くという行為を厭うようになったのは、いつからなのだろうかということである。答えは簡単で、車に道を横取りされたからである。人の歩けるのは、この日本の中では山道しか残されていない。だがしかし、それさえも忘れ去られるときがくるかもしれない。生まれながらにして、車でしか移動したことがない人々が、いずれ全てとなるのだから。祀る人もいなくなった峠の山神や、ほこりと排気ガスで汚れてしまった路傍の石仏を見ると、つまらぬことを考えるものだ。
 峠から川内側に降りれば、林道赤芝線の赤芝の釣り堀の裏にでる。小平側に降りると、山腹を巻くように進み、杉林を下り、ワサビ田を抜けて、林道孫線にでる。林道を左に行けば、約2.5kmで小平の大杉の町内循環のバス停に着く。林道を右に進むと、すぐに庚申塔や石仏が十基ほど並んだところにでる。林道は孫沢に沿ってさらに奥へと続いている。600m程行くと二俣となり、左が孫沢本線、右がガリュウ線である。ガリュウ線の終点まで行くと、そこもまた二俣で、苔むした石祠がある。石祠に導かれるように右俣を進むと、30分かからずに、稜線にでる。そこは「山一」の石柱のある分岐のすぐ北の鞍部である。
 地形図を見ると、この辺りは鍋足沢左俣の源頭部で、通称鍋足沢の頭は、右俣の頭である。考えてみると、小平地区から高沢に行くにはこのルートが最も近い。石仏や石祠に見送られてここまでくると、ガリュウ峠か鍋足峠か知らないが、ここが峠であったような気がしてならない(註1)。そういえば、赤松の大木が、いかにも天狗の腰掛け風で峠の風情がないわけではない。
 とんだ回り道で出発点に戻ってしまったが、十二峠に話を戻して先に進む。峠から急登し平坦な尾根道を、ツツジの小枝を掻き分けながら行くと、またひと登りで797.2m峰に着く。三等三角点の標石があり、桐生倶楽部の古い案内板が落ちていた。山頂は、たいして広くもなく、特別に見るものもなく、展望もない。私はこの山頂が好きだ。
 『郡誌』の記事によれば、ここが十二山である。しかし、孫に住む老婆は「ジュウニは聞くけどジュウニヤマは知らない」と言っていた。川内側の堂場の鉄砲撃ちも同じような事を言っていた。さらに、『郡誌』付録の「山田郡全図」には、この十二山と思しきところに山頂の記号があり、赤柴山と記入されている。『郡誌』編纂の折りに、調査員が一々山頂に登り山名を確認した訳でもないだろう。
 思えば、山地に生活する人々にとっては、峠こそ大事であって、信仰の対象になっていた山は別にして、山は山にしかすぎない。確かに、小字名として「あかしば」「じゅうに」はある(註2)。右の山も、左の山も十二の山であり赤芝の山なのだろう。
 ここで寄り道をする。797.2m峰から南に枝尾根を辿ると、その突端は急傾斜の崖になっている。ここに1m程の石積みの上に、「蚕影山」と彫られた石祠が南を向いて鎮座している。明治二三年寅旧三月の明記がある。養蚕の盛んだった頃には信仰を集めたようだ。『大間々町の民俗』(註3)に、大間々の人たちが参拝した話が載っていた。東側の下に数軒の人家があり、平久保と呼ばれている。この平久保の谷を詰めたところから、左に戻るように山腹を斜上し、石祠の北で尾根に出る参拝路があったと聞くが、尾根上からは気が付かなかった。急な崖を無理やり降りたことがある。聞くところによると、治山だか治水だか知らぬが、コンクリートの不粋な堰ができるとか。桃源郷平久保の終焉は近い。
 再び797.2m峰から縦走路を行く。南に向きを変えながら下ってゆき、緩やかなアップダウンの雑木の小道を楽しんでいると、桐生市基準点No.126が丈の低いササの中に見つかる。この辺りを西に下ると、小平川の支流折ノ内川を下降し、折ノ内の集落に出るのであろう。
 折ノ内は、小平から鳴神山周辺を通り梅田に抜ける広域基幹林道桐生大間々線(梅田小平線)の起点である。地形からすると、林道はこの基準点の付近を通過するのであろう。そうしてこの林道は、鳴神山周辺の自然をむしばみ、あのカッコソウを壊滅させるのであろうか。この雑木のプロムナードも、風前の灯である。
 なんだか暗い気分になってしまったが、先へ進もう。基準点から緩やかに登ってゆくと、706.3m峰に着き、四等三角点の標石を見るが、展望はまったくない。『郡誌』には、この標高の山名は見られない。小平では「こぶね」と呼び、「小舟」と書くと聞いたが、その由来は知らない。東下の川内の集落滝ノ沢で尋ねてみると、「たかとややま」といわれた。「とや」が鳥屋だとすれば、むかしは鳥網でも張って、鳥の通るのでも待っていた猟場でもあったのだろうか。そういえば山頂の北に窪地があり、小屋掛けでもしたのだろうか。栃木県に大鳥屋山があるから、こちらは、さしずめ「高鳥屋山」ではどうだろう。もちろん冗談ですが。この山が「たかとややま」であるという根拠を、なにも持ち合わせていない。
 706.3m峰からやや南西方向に向きを変え、同じようなコブをいくつか越えて500m程行けば、おだやかな尾根になる。他に尾根が見えないので、気持ち良くこの尾根を直進してしまうと、境界の尾根には入れない。前方にわずか下り、いくつか露岩が見え、その先がゆるく登りになっている地形が見えたら、左手、南方向に踏み跡らしきものを見つけて降りてゆくと、じきに尾根形が明瞭になり、わずかで鞍部にたどり着く。道の傍らに、ササバギンランがひっそりと咲いていたことがあった。あれは、ほんとうにひっそりと咲いていた。
 この鞍部から、東へおり川内側に出ると、そこは地元の人が「あかっち」と呼ぶ、小字名「赤地」の集落である。集落に出る200m程手前だろうか、丸太の橋があり沢を渡れるようになっている。大きな岩があり、岩のくぼみに本当に可愛いほとけさんが祭ってある。あれは観音さまだっただろうか。「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄」『般若心経』は、この冒頭に集約されている。観自在菩薩とは観音さまのことである。
 鞍部から駒見山へと登る。右手に、落葉松の植林帯の間から赤城山の雄大な山容を望み、500m程で山頂である。『郡誌』に記される583.9mの標高は、三角点の標高で、地形図で見ると、山頂部は600mあることになる。また『郡誌』にみえる駒見山の山名は、川内の小字名「駒見」に因るものだと思われる。小平の人たちは「たかくら」と呼んでいるが、それは三角点のあるところをそう呼び、山頂はやはり駒見山というらしい。山頂部は細長く、北から西にかけて手入れされていない赤松が植えられ、南は雑木とつる草がのび放題で、あまり芳しいものではない。昔はクマガイソウの群生地であったと聞くが、今はその姿さえ見えない。
 山頂の西端で、尾根が南と西へ分かれる。西に行けば三角点の標石があるはずだが、標石を確認した記憶がない。だが標石のかわりに、石祠を三基確認した。左右に大天狗・小天狗、中は何宮だったか定かではない。「小平山・正福寺」とも刻まれていた。今は祀る人もないようだが、三本木の集落と正福寺からここへ登拝する道があると聞く。またその途中に、石祠や不動尊があると聞いたが、確認してはいない。
 山頂に戻って、南の尾根の縦走路に入る。この下りはめったやたらと山椒のあるところで、バランスを崩してうっかり木をつかむと多分それは山椒だから要注意。
 下りきると、三本木と棒ノ谷戸(がいと)を結んでいたであろう駒見峠となる。峠から踏み跡は標高点510mの頂きには登らずにいってしまうので、途中からその高みに登ってみよう。鳴神山から吾妻山への稜線が、一望のもとに見渡せる展望の素晴らしい辺りを探すと、桐生市基準点No.75がある。また、今辿ってきた「たかとややま」も、顕著なピークとして識別できる。
 この基準点から東南にのびる尾根を辿ると、200m程で石尊山に至る。ここは仁田山城址で、石尊宮を祀るようになって、石尊山と呼ばれるようになったのだろう。仁田山城は栃久保城ともいわれ、里見上総入道勝廣の悲劇をはじめ、桐生地方史を紐解けば必ず登場する歴史の舞台である。三堂坂(註4)の集落からと、棒ノ谷戸の赤城神社よりの登路がある。山頂には、不動尊(註5)が鎮座している。また珍しいのは、天下太平・国家安全を祈願した嘉永4年(1851)に造られた鐘があることだ。嘉永4年はジョン万次郎が米国から帰国した年で、その2年後にはペリーが浦賀に来航し、幕末前夜の騒然とした状況の中で、民衆の不安に駆られた心情が伝わってくるようだ。
 桐生市基準点No.75は、縦走路のほぼ中間点であり、石尊山に佇み、歴史に思いを馳せ、ひとまず川内に下るのもいいだろう。
 基準点からゆるく下ると、ここは堀切とか空壕とか呼ばれる切り通しがある。これも仁田山城のそれには違いないのであるが、ここも三本木から三堂坂への峠であったかもしれない。わずかに急登すると520m峰である。この西に三本木の集落があり、この辺りに三本木山があるはずである。『郡誌』によれば三本木山は標高400mである。だがこの辺りには、それに該当するところは見られないのである。小平では、この520m峰を三本木山と呼んでいる(註6)。集落に向かう西北の尾根にも踏み跡が見える。ピークから南に下り始め西に向きを変えて行く辺りで、鞍部に着く。
 鞍部に下り着くわずか手前の稜線の南側数m下に、台石に上仁田山邑と彫られた山神の石祠を見るだろう。造られた年号を記録していなかったので、知人に確かめたところ、元治二年三月と刻まれていたようだ。数年で明治維新を迎えるという時である。石祠に登る十段ほどの石段も、わずかに顔をのぞかせる。時には幣束がいくつも風に吹き飛ばされて散乱している。多分ここが三本木峠であろう。山仲間の記憶によれば、道は石段の前を通っていたようだ。伐採と植林の繰り返しで、低山の道は常に変化している。
 川内に降りれば、宮の沢の寺の少し上にでると聞いた。三堂坂と宮の沢の中間の白滝橋の近くに十王尊が祀られているらしい。おそらくは、その辺りにでるのではないだろうか。未踏査である。
 峠から雷電山をめざす。稜線上のイバラを掻き分け、右や左に曲がりながら、杉や檜の中を抜けてゆく。薄暗い植林の中、春先に訪れると、群生するヤマブキの黄色がわずかに慰めとなる。途中、桐生倶楽部の朽ちた標識板が落ちていて、かすかに「谷山(やつやま 八ツ山)城址へ」と読め、峠から約1kmで雷電石祠のおかれた山頂に至る。
 雷電山とは、この雷神を祀った祠に由来する通称であろう。もとは谷山とか八山と表記され、仁田山城の砦の一つがあったところである。仁田山城の搦手口からでて、桐生市基準点を経てここに至る山稜は、往時、里見上総入道が落ちのびた砦への山道で、入道は、ここ谷山で自らその一生に幕を引いたのである。今は物好きなハイカーと山芋掘りが稀に通るにすぎない。
 『郡誌』は、標高400mと記すが、今は四等三角点がおかれ、地形図からは449.1mと読み取れる。ここも白幣が散乱し丈竿が数本束ねてあったりし、川内側でお祀りをする人が入るようだが、草木が生い茂り酒瓶がころがり、往時を偲ぶにしては、うら寂しく悲しい風景である。
 ここ谷山から東に200m弱のところに谷形が複雑に入り組んだ中に、標高370mの高みが地形図に見える。『郡誌』に「角山360.0m」と記すのはここであろうか。確認していない。
 谷山から西に針路をとり、桜峠に向かう。伝送の中継アンテナが二本あるイバラの道を100m、檜の中の急降下100mで桜峠である。峠は谷山砦の堀切であったようだ。
 ここから小平に下ると、昔の静かな山村の風情はなく、一大観光地と化している。渡良瀬川左岸の山地で、石灰岩の露出地はわずか数カ所と聞く。この辺りはその内の一つである。昔、鍾乳洞があった話が言い伝えられており、かなりのにぎわいとなり、ある事情で埋め戻されたとも聞く。大間々町が数年前に再発掘し、小平鍾乳洞として売出したのである。その後親水公園、キャンプ場などいくつもの施設ができ、山村の様子は大きく変貌した。
 峠を川内側に降りれば、沢に埋もれかけた無縁仏や庚申塔を見て、じきに長尾根峠に続く舗装路に出る。ここもわずかに峠に至る山村の気配が残るだけである。
 峠から西に雑木の中を急登し高みへ出ると、やや平坦になるが篠竹がうるさい。以前2時間かけて切り開いたことがあるが、すぐに元に戻るだろう。ここを抜けると、南に境界線が折れるところに出る。辺り一体刈り払われて、近くは長尾根の集落、遠くは西上州、浅間山、八ヶ岳など、展望をほしいままにする。
 踏み跡が南から南西に向かい、354m峰で再び南に向かう。354m峰の頂きはなだらかで、道が不明瞭になるが適当に南に行けば、すぐに踏み跡が見つかる。鞍部からわずかに登り地形は穏やかになるが、ヤブが相当うるさい。ヤブ漕ぎ200mで、舗装道路の通り抜ける長尾根峠に到達する。峠の切り通しのすぐ上、ヤブの中に半分埋もれかかった石祠がある。舗装道路の通る峠には、それがいかにも相応しいような気がして、一度も掘り出してみたことがない。ヤブの西側はシイタケのほた木置き場になっているので、その作業道から舗装道路に出て、峠に戻る。
 峠の東側より再び山道を行く。人の気配を感じて右下の家の犬が吠え出したりするので、超スーパー低山の気分を満喫する。やや急登し右に曲がりまた登ると、三叉路風のピークに出る。東の尾根を行けば麦生小路、またその途中南に伸びる尾根に入れば岩久保に出る。東の尾根の方がヤブが薄いが、進路は西で、ヤブ尾根を緩やかに下り、そしてまた登り、やがて394.1m峰に着く。三等三角点があり、測量の旗に小さく「岩久保」と書いてあった。ここが『郡誌』にもみえる、岩久保山である。山頂は檜の植林と笹に覆われていて、何の感慨もわかないが、こういうところも嫌いではない。
 岩久保山から南に下り、すぐに西に向きを変えてわずかに登り、その高みで直角に曲がり南にわずかに下ると鞍部に着く。ここは、地形図に発電所記号が見える福岡発電所の集落と、川面の文字の見えるところの川面の両集落からの道を併せ、川内の岩久保へ抜ける峠状のところである。以前、岩久保からここをめざしたが、登るにつれて猛烈なヤブとなり、西側の尾根に逃げてここまで来たことがあった。
 桐生市と大間々町の境界線は、この峠状のところを東に数十m行き、「高谷戸入市有林」の桐生市の標柱が立っている窪にそって下っている。窪にそって行けば、すぐに沢形がはっきりしてくる。沢は最後は渡良瀬川に流入して終わるが、この沢が境界線になっている。
 要害山への縦走路は境界線と分かれて、この峠を横切り標高360mの高みから、西に600m程の標高300mのピークをめざすことになる。だがしかし、道がない。ゴルフ場の造成が進行中で、稜線が消滅した。稜線ばかりでなく、手元にある昭和63年修正測量の二万五千分の一の地形図「大間々」から、岩久保山の西斜面から川面の集落にかけての全ての地形がなくなった。稜線の小道は、赤松と雑木のヤブッぽい道ではあったが、今となってはそれも懐かしい。
 縦走を諦める人は、岩久保山の下の峠から境界線の沢にそった道を下り、高津戸の集落から要害山に登り直すのが近い。登り口は公民館のあるところ。
 もう一つは、岩久保山を諦めて、長尾根峠で舗装路を西に下り左折して、高津戸ダムへの道をとるコースがある。舗装道路ではあるが、眼下にダム湖を眺め、対岸に大間々の市街地を見て、まずまずの散歩道である。川面の集落を過ぎ、この眺めに飽きた頃、左岸に石段があり、コンクリート舗装の道を辿ると要害山に至る。この石段を見送ってしばらく行けば、遊歩道の入口があり、山頂の南で、東屋のある展望台に出る。
 どうしても縦走したい方は、どうにかして300m峰まで行くしかない。奇特な人が増えれば、踏み跡ができ、やがては小道となるだろう。300m峰から南下して行くのだが、ここにもゴルフ場の造成地が食い込んでいて面白くない。まもなく送電線の鉄塔の下に出て、その先の「東京電力太田工務所・送電課」「福岡線4号に至る」と書かれた標柱のある十字路を直進する。30m程行くと、送電線の巡視路が分岐して左下に下がって行く。その分岐の数m手前で、右手に入る踏み跡を見つけて、そこに入る。数十mでわずかに小高くなった辺りで、ヤブの中を探せば四等三角点の標石が見つかるはずである。そこが、地形図に284.3mの三角点記号の見えるところで、点名は高津戸である。
 四等三角点から要害山は近い。かなりヤブッぽいが、踏み跡はしっかり着いているので驚くほどのこともない。途中、送電線の鉄塔の下を過ぎヤブから抜け出すと、右下からくるコンクリートの道に出会う。この道は、先程の高津戸ダムの上の舗装道路から、石段を登ってくるそれである。コンクリート道を辿り、空壕の跡などが見えれば、そこは要害山の一郭である。
 『郡誌』には、要害山の他に、両崕山、龍楷山の別称も見え、また標高240mと記すが、地形図で見る限りは270m程である。要害山は、文字通り要害の地であり、山全体が高津戸城の城跡であり、往時は三の丸まであった典型的な山城であったのだろう。その築城は古く、平安時代後期、寛治2年(1088)であるといい、その廃城は天正18年(1590)と聞く。その間500年の城史には、里見兄弟の悲劇を筆頭に数々の物語があるようだ。いずれにしろ、ここも石尊山、谷山と同様に、歴史探訪の山であるのかもしれない。
 山頂部の本丸跡の平坦地には要害神社が祀られ、その南に二の丸、さらに堀切があり三の丸へと続く。この三の丸があったであろう所は、現在駐車場で、展望台が二つ建ち、南端に建つそれは東屋になっており、物見櫓に立つ見張り役にでもなった気分で、関東平野を眺めるのも一興である。また、十山亭の詩碑や狂歌碑、そしていくつもの石祠がある。
 鍋足沢の頭を出発し、巻き道もなく、全てのピークを忠実に辿る赤芝山脈縦走が、ここ要害山に至り、終わりを迎えるのである。振り返ってみれば、幾つもの忘れ去られた峠や石祠、わずかに信仰の続く石祠、歴史に彩られた山々、そして林道工事、治山治水事業、ゴルフ場建設等、今も昔も人々の生活に密着している山々なのである。赤芝山脈縦走は、過去から未来への山旅であると、結論づけて終わりとしたい。

註1 『山田郡誌』には、北部山脈の峠として、十の峠名をあげる。これらの峠が結ぶ地区をまとめると、勢多郡東村・黒保根村地区、小平・ 浅原地区、川内地区、梅田地区の四地区に大別できる。この内、小平と梅田を結ぶ峠だけがない。いかにも不自然な気がして、小平の人に尋 ねたら、「孫沢の奥から高沢に抜ける道があった」と言う。ここがその峠である可能性もある。
註2 桐生市立図書館の館長を勤められた小林一好氏の労作『桐生市地名索引』がある。しかし、現在どの辺りなのか地形図の上にでも明記し ていただかないと、索引だけでは分りにくい。
註3 群馬民俗調査報告書第十九集、群馬県教育委員会編。
註4 『山田郡誌』には、三堂坂、御堂坂の表記も見える。現在三堂坂と呼ばれている所には、不動堂、薬師堂、庚申堂がある。
註5 『桐生市史別巻』に、「…石尊と呼ばれる大山祇(おおやまずみ)上の本地仏不動の尊像は…」とある。石尊とは、大山祇神であり、即 ちイザナギノミコトの子供である。そしてその本地仏が不動尊であると考えられている。因に大山祇神は、山をつかさどる神である。
註6 この三本木山の南西に平行に尾根が張り出している。小平では、この尾根を八王子山と呼ぶ。地形図の標高線390m〜400mにかけての 間隔が広くなっており、多分その辺りだと思われる所に八王子神社がある。『山田郡誌』には、「字三本木八王子山」の記述も見える。


1995年3月 桐生山野研究会 桐原の住人

桐原の住人さんから大間々周辺の山と題した山行記をいただきました。赤芝山脈縦走は本文中の記述から私の方でつけました。やまの町 桐生のページにも共通していえることですが、平成の大合併後の新地名では、山を歩く時に分りにくいものがあります。地名は旧のままとしました。一部記述も改めました。

楚巒山楽会 代表幹事

=桐原の住人さんどうも、hisiyamaが概念図を楚巒山楽会の代表幹事さんに作って戴き入れさせてもらいます。桐原の住人さんは大間々なので、要害山へ。私は桐生ですので川内からの赤芝山脈の記録です。大分間違いはあると思いますが、御赦しのほど。 = hisiyama

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