仙人ヶ岳

桐生みどり

 仙人ヶ岳(663m)は桐生市と足利市に跨り、桐生市街地の奥に鋸の刃のような長い山稜を連ねている。桐生市街地からの山容は僅か600m程度の山とは思えないほど立派である。その範囲は、北を穴切峠、南を白葉(しらっぱ)峠、東を小俣川・猪子(いのこ)峠・松田川、西を桐生川で囲まれた区域である。近年まで山頂に至る明瞭な道がなく、地元以外には殆ど知られていない山だった。1980年代に小俣の岩切から生不動を経て山頂に行く道が整備されて以来、登山者が格段に増えた。それまでは上菱から朝日沢沿いの鉱山道を登るか、黒川東の入から踏跡を辿る人が多かった。整備された登山道は足利側の二本だけで、桐生側の道は昔と変わっておらず、踏跡程度である。そのため、今では足利の山だと思っている人が多い。

 仙人ヶ岳は旧足利郡に属し、上菱村・黒川村(現桐生市菱町)、小俣村(現足利市小俣町)、松田村(現足利市松田町)に跨る山の総称である。仙人ヶ岳について下野国地誌編材取調書には以下のとおり記載されている。(一部略字体に訂正)

黒川村

仙人ヶ嶽

 仙人ヶ嶽ハ其高サ直立ニ百五十丈余山脈四方ニ分レ一ハ小俣村ニ接シ一ハ松田村ニ亙リ一ハ上菱村ニ跨ル其一ハ本村ノ中央ニ蟠延シテ支脈八方ニ分岐シ村中ヲ数部ニ画ス、全山赫土ニシテ樹木少ナク然レトモ希ニハ松等を生スル

上菱村

 朝日沢山ハ本村ノ東北ニアリテ同郡松田小俣黒川ノ三村ニ跨ル山脈ニシテ其高キ所直立三百四拾丈周囲二里許其脈村内ニ播蜿シ数多ノ巒峯ヲナス東方ニ峯嶺アリ加義ノ高山ト云フ地味磽ニシテ樹木繁茂セス登路二条一ハ字前ノ手ヨリ右ニ折レ半里許ニ至リ左側ニ奇巌アリ直立五丈許上ニ突出シテ恰モ檐頭ノ如シ名テ館石ト云フ是ヨリ小径二又ニ分レ東南頗ル嶮路ヲ経一里許ニシテ漸ク頂上ニ達ス東ハ同小径ニシテ遂ニ同所ニ至ル一ハ字塩ノ瀬ヨリ茂倉沢境ノ山脈ヲ経道程壱里半許シテ頂上ニ達ス其北方松田村界ニ至テ稍聳立ツ之ヲ神楽場ト名ク古俗此所ニ於テ晴日ニ際シ天狗集合シテ笙ヲ吹キ鼓ヲ鼓シ舞ヲナセリト云フ因テ以テ神楽場山神ト称ス頗ル峻嶮ナリ

 渓水五条一ハ犬返リト称ス盗久保ノ下ニ出テ南流シテ字前ノ手ニ至リ朝日沢川ニ入ル深サ壱尺ヨリ浅キハ三寸許其幅広キハ六尺ニシテ狭キハ四尺許一ハ加義山ノ麓ヨリ発シ闇見沢ヲ経テ字新道ニ至リテ朝日沢川ニ会ス丈壱尺五寸乃至三寸許幅広キハ五尺狭キハ三尺ニ至ル一ハ津賀ノ窪ヨリ発シ字仏岩ノ麓ニ至リ丹蔵ヶ渕ニ入ル深サ壱尺浅キハ二寸幅四尺ヨリ乃至三尺一ハ竈場ノ奥ヨリ突出シテ滴々ス幅二尺狭キハ壱尺五寸許一ハ前后山ト称ス南麓ヨリ発シ字痩松沢口ニ至リ朝日沢川ニ入ル深サ一尺浅キハ三寸幅四尺狭キハ三尺許数川相会シ北流シテ桐生川ニ注入ス

仙人ヶ岳の伝説

 上菱の塩の瀬地区に仙人ヶ岳に因む伝説がある。三人兄弟の母親が不治の病にかかり、仙人ヶ岳の頂上にある梨の実を食べれば治ると、桐生の町で会った占い師(仙人)から三男が聞いてきた。長男・次男は梨の実を採りに別々に山に入ったが、2人とも魔物に捕らえられて食われそうになった。仙人から兄2人の危機を伝えられた三男が仙人から授けられた矢で魔物を退治して梨の実を持ち帰り、母親の病気が治って幸せに暮らした。そして、一家は仙人ヶ岳の館石に祠を祀り、厚く信仰したという話である。

 朝日沢から仙人ヶ岳に向かう道は標高から考えるよりずっと深い山で神秘的な雰囲気がある。初めてこの伝説を知った時はいかにも仙人ヶ岳らしい話だと思ったが、その後この伝説は仙人ヶ岳固有のものではなく、各地にある代表的な民話だと判った。地誌及びこの民話に出てくる館石はおそらく立石(たていし)の意で、頂稜近くにあるつなぎ石だと思う。

山名について

 山の呼称は地区によって異なり、北面の上菱地区では朝日沢山、南西面の黒川地区では仙人ヶ岳、南面の小俣・松田地区では仙人岳と称していたという。国土地理院の地形図に仙人ヶ岳と記載されて以来、仙人ヶ岳が一般的になっている。ただし、山頂の三角点名は、上菱地区での呼称である朝日沢山に由来する朝日岳となっている。地元及び仙人ヶ岳に詳しい人の間では山の総称を仙人ヶ岳、最高点の峰の名称を朝日沢山と呼んでいる例があり、私たちの仲間ではこれを踏襲している。地元では峰の名についてはそこを源とする沢の名称を用いている。例えば登山者が通称している前仙人は仙ヶ沢、その西の峰を大窪(大久保)などと呼んでいる。この地方では何とか沢の頭という言い方はしておらず、それらの名称は登山者が近年付けたものである。

登路

 仙人ヶ岳で道が整備されているのは足利側である。仙人ヶ岳は足利市の最高峰で足利を代表する山であり、登山道整備に力を入れるのは当然かもしれない。これに対して桐生市は赤城山を始め根本・鳴神など知名度の高い山を多く有しているので、仙人ヶ岳は忘れ去られており、桐生側の道は踏跡程度である。

 黒川側からは東の入から仙ヶ沢・朝日沢山間の頂上稜線に至る明瞭な踏跡がある。最近、住吉団地から尾根伝いに登る道が整備された。東の入からは信仰対象になっていた唐沢山の岩稜を登って大窪に登る登路もある。

 昔の主要登路だった朝日沢の道はマンガン鉱山廃止後、荒れ果てて桟橋が朽ちているので危険である。代わりに現在は塩の宮神社から朝日沢左岸の尾根を仙ヶ沢経由で朝日沢山に登る道が歩かれている。途中、つなぎ石を経由する興味深い登路である。林道茂倉沢支線跡を登って仙人窟まで行き、釈迦如来座像を拝んでから背後の山に取り付き、つなぎ石付近で稜線に出て仙ヶ沢経由朝日沢山に登ることもできる。主要な信仰対象だった仙人窟・つなぎ石を通るので最も興味深い登路であるが、仙人窟から稜線まで踏跡は全くないので経験者向きである。

 小俣側からは生不動経由のものと猪子峠を起点とする二つがある。松田側からは赤雪(あけき)山から峰伝いに行くものと野山林道終点から朝日沢山に至る踏跡があり、最近は標識が整備されるなど登山道に近くなっている。

 そのほか峰伝いに西の観音山、北の穴切峠や南の白葉峠に抜けることもできるが、明瞭な踏跡はない。

1 黒川からの登路 

東の入から朝日沢山

 東の入林道終点から指導標に従って舗装された右の作業道を登る。作業道の終点から従来の道となり、杉林の中を登り詰めると仙ヶ沢と朝日沢山間の稜線に出る。ここから朝日沢山(663m)まで20分ほどで着く。

林道終点(1時間)朝日沢山(20分)東の入分岐(30分)林道終点

唐沢山から大窪

 下野国地誌編材取調書に唐沢山は次のとおり記載されている。

唐沢山ハ仙人ヶ嶽山脈中ニアリテ奇岩層畳怪松多ク常ニ濶泉涓々トシテ実ニ絶佳ノ勝景ト云フヘシ

 東の入林道から左に作業道を分岐する地点で作業道との間にある岩稜に取り付く。岩は褶曲した節理が目立つチャートである。地誌に記されたとおり、唐沢山は松が点在する山水画のような景勝地で、昔は信仰の対象となり登拝路が整備されていたが、人の訪れも稀な今は雑木の藪に覆われている。石灯篭を過ぎると岩の上に石祠が2つ並んでいる。左が根本山神、右が唐沢山神で江戸時代後期の文化文政時代に建立されたものだが、今はすっかり忘れ去られている。大きな岩を巻いて登ると石の台座がある。甲斐國金峰山分地である旨が記されており、奥秩父の金峰山を勧請したものである。雑木林を登ると作業道跡に出る。ここから少し登ると稜線に出て右を登ると大窪の頂上(639m)である。

東の入林道(30分)唐沢山(30分)金峰山台座(20分)大窪

住吉団地から朝日沢山

 最近、地元のすみれ山好会が整備した道で、桐生側で最も良く整備されている。仙人ヶ岳の登山道では最も長く、住吉団地から黒川・小友川間の尾根を登って県境尾根に合流し、仙ヶ沢と朝日沢山の中間に出る。

 団地の北側から標識に従って階段を登り、尾根に取り付く。樹間が開いており、道は明瞭である。登り切った頂(230m)にはでんべい山と記されているが、地元では羽場山と呼んでいるようだ。行く手には仙ヶ沢から朝日沢山に連なる仙人ヶ岳主稜線が見えるが、まだ先は長い。道は雑木の尾根伝いに付いている。展望台(森山)で坂下橋からの遊歩道が合流している。528mの三角点から10分ほどで白葉峠からの県境尾根に合流する。この先も鷹の巣、荒倉など幾つも小さな峰を越えて行くので距離の割に時間がかかる。朝日沢山が間近に見えると、やがて仙ヶ沢と朝日沢山の中間に出る。ここから朝日沢山・仙ヶ沢までいずれにも20分ほどで着く。

住吉団地(20分)でんべい(羽場)山(1時間30分)三角点(1時間10分)朝日沢山

2 上菱からの登路

塩の宮神社から仙ヶ沢

 朝日沢沿いの道は荒廃して危険なので上菱地区から最も一般的な登路は塩の宮神社から尾根伝いに仙ヶ沢に登るものだ。途中、大きな石祠が2つある。一つ目は峯一山神で、「上菱浅部両村入合」と記載されており、旧梅田村浅部の峯一家の造立だという。足利郡菱村郷土誌(1911年刊)によると寛永三(1626)年の創立である。2つ目の石祠には「宝暦十四年八月」と記されており、1764年の創立である。峯生(みねお)家が造立したので峯生山神と呼ばれている。ここまでの道は明瞭である。ここから上は急に心細くなるが、尾根伝いなので迷うことはないだろう。登り詰めるとつなぎ石に出る。傍らには紹石山神と記載された石祠が祀られている。高さ5mほどの岩が基岩の上に転げ落ちそうな危い状態で乗っており、足利郡菱村郷土誌には次のように記載されている。

絶頂ニハ怪石斜懸ノ倒垂随エントシテ而シテ墜チズ。飛バントシテ飛バズ。或ハ仰ギ或ハ俯ス。

 まさに怪石であり、当を得た表現である。この石が仙人ヶ岳信仰の中心であったと考えられ、記載されているように絶頂(頂上)はここを指していたのだろう。紹石山神の石祠には造立年月日が刻まれている。摩減して判読し難いが、「文化十三丙子 正月」のように見える。文化十三年が正しければ1816年である。「紹」は糸をつなぎ合わせる意味であり、訓読みで「つなぎ石山神」又は音読みで「しょうせき山神」と読むのだろう。

 ここから10分弱で仙ヶ沢頂上(647m)に着く。この峰の通称名は前仙人であるが、地元では仙ヶ沢と呼んでいる。菱の郷土史(1970年刊)にも仙ヶ沢と記載されている。

塩の宮神社(20分)峯一山神(20分)峯生山神(50分)仙ヶ沢(1時間10分)塩の宮神社

仙人窟から仙ヶ沢

 茂倉沢の林道に入って5分ほどで左に支線が分岐する。支線林道はすっかり崩壊している。茂倉沢の左俣沿いに林道跡を登る。沢の分岐を左に入り、杉林の中の踏跡を辿ると行く手に石窟が現れる。石窟内には釈迦如来の坐像が鎮座している。風雨に晒されていないので保存状態は良好である。仙人窟の左上(東)の稜線上にある岩を座禅岩という。この石仏は明治時代に桐生の佐羽吉衛門が奉納したという説があるが、石灯籠に「元文三戊午三月十二日記」と記されているのでこの頃造立されたと考えるのが自然である。元文三年は一七三六年である。

 仙人窟のすぐ左(東)側の急斜面に取り付く。踏跡は殆どなく、足元が滑るので立ち木を手掛かりにして登り詰めると塩の宮神社から仙ヶ沢に至る稜線に出る。稜線を右に数分行くとつなぎ石に出る。ここから仙ヶ沢頂上までは僅かである。

茂倉沢林道入口(50分)仙人窟(40分)仙ヶ沢(50分)朝日沢山

3 小俣からの登路

岩切から生不動経由仙人ヶ岳、猪子峠経由周回

 小俣の岩切から生不動経由で山頂に登り、猪子峠を経由して出発点に戻るコースが仙人ヶ岳では最も多く利用されている。猪子峠から深高山を経て石尊山まで道が整備されているので、縦走することもできる。

 岩切から沢沿いの道を行く。小さな滝もあって気分の良い道である。やがて生不動に着く。岩の下に社殿があり、賑わった往時が偲ばれる。沢沿いには朝日沢と同じくマンガン鉱山跡が多い。急な道を登り切ると稜線に出る。ここは熊の分岐と名付けられているが、大袈裟すぎてそぐわない。尾根を20分ほどで朝日沢山に着く。

 往路を戻り、尾根伝いに行く。展望が開け、松田湖を眼下に望む。途中、松田湖に下る目印が付いているが、踏跡が途中でなくなり、鷹ノ巣林道に下るまで酷い草薮になるので踏み込まない方が無難だ。稜線は上り下りが多く、距離の割に時間がかかる。

 やがて犬返りに着く。10mほどの急な鎖場の下りだ。鎖場が苦手な人は左の巻き道を下ればよい。猪子峠から小俣側に下り、猪子トンネル近くに出る。岩切までは数分の車道歩きである。 

岩切(1時間30分)朝日沢山(2時間10分)猪子峠(20分)岩切

4 松田からの登路

松田湖から赤雪山・仙人ヶ岳縦走、野山林道経由周回

 松田側からは赤雪山からの縦走路と野山林道終点から朝日沢山に至る踏跡があり、松田湖の赤雪山登山口から周回できる。

 駐車場から車道を数分歩くと赤雪山登山口に着く。沢沿いの道を行くと植林帯になり、登り詰めると尾根に出る。急な尾根を少し登ると赤雪山頂(621m)である。東屋を造って公園風にしたので山頂らしくない。

 仙人ヶ岳への稜線は踏跡程度だったが、今では立派な指導標が設置されて整備された道になっている。原仁田の頭は特徴がないので気付かず通過してしまうだろう。原仁田は山麓にあった集落名であり、原仁田の頭は桐生倶楽部山の会による命名だと思う。やがて石祠があり、「大正十三年十月吉日」と中沢家の印が刻まれている。ここが下野国地誌編材料取調書に記載されている神楽場である。通称三角山(623m)を過ぎて暫く行くと朝日沢山の手前から野山林道への下降点がある。急な登りで東の突起を越えると山頂はすぐである。

 往路を戻って野山林道下降点から急斜面を下るとほどなく林道終点に出る。ここから林道を歩き、松田湖の湖畔に出れば赤雪山の登山口は近い。林道を歩くのは3km半ほどである。

松田湖駐車場(1時間)赤雪山(2時間)朝日沢山(20分)野山林道終点(50分)松田湖駐車場

5段目右の写真は、本文中、特徴がないと書かれている原仁田の頭です。スペースが余ったので入れました。楚巒山楽会代表幹事

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