根本山飛駒口

桐生みどり

根本山神社の里宮は梅田(大正院)と飛駒(大学院)にある。根本山は天正元年(1573)四月一日に良西行者によって開山された伝承があり、麓に里宮として大正院がおかれた。開山伝説は「野州安蘇郡入彦間村宝寿山大正院根本山縁起」に記載されている。

その後、天正十八年(1590)、野州唐沢山城主佐野氏家臣の系譜を引く小野高貞が京都聖護院の令旨をいただき、飛駒に要谷山大学院(大覚院とも表記)を開いた。これが飛駒の根本山神社里宮大学院である。大学院でも縁起が作られていた。それによると、役の行者が富士山に登って東北の方を眺めると遥か彼方から一条の瑞雲がたなびくのが見えたので、瑞雲を目指してこの地に来た。そして険しい峰に登り、その峰を根本山と名付けたという。また、源の義経が奥州平泉に落ちて行く途中で根本山に野宿し、山神九郎王子が現れ、巻物を授けられたなど牽強付会のような話もある。

当初は飛駒からも根本山神社本社を参詣していたと私は思っているが、その後、十二山に根本山神社を祀り、信仰対象が十二山根本山神社に変わったらしい。大正院・大学院とも根本山別当本山修験(天台系)であったが、明治の神仏分離で神官になることを余儀なくされ、両方とも根本山神社里宮となった。

根本山神社里宮(大学院)

飛駒の根本山神社里宮は根古屋森林公園内にある。本殿と手洗場があり、手洗場の水盤(水鉢)は佐野市指定有形文化財になっている。水盤は天保六年(1835)五月に下野の商人二百四十人余りが奉納したものであり、一見の価値がある。ほかに鉄の鋳物である大火鉢と茶釜が文化財に指定されている。神主が不在になり、社殿は佐野市の管理下にあるらしい。寺は信仰がなくなっても葬式仏教で存続していけるが、神社は寺と違って葬儀関連の収入がなく、社殿の修理にも事欠く所が大半だ。根本山神社について大学院だけでなく大正院も今後維持できるのか心配している。

根本山参詣路飛駒口(黒沢から丸岩岳経由) 

根本山神社里宮からの参詣路は飛駒の黒沢から丸岩岳を経て十二山の根本山神社まで通じている。この道は現在、登山道として利用されず、荒れているので山馴れた人向きである。上州側と同じように十二山根本山神社まで幾つか道標(丁石)が残っており、参詣路の探訪は興味深い。

根本山神社里宮を後に飛駒奥の黒沢に向かう。最終人家の所で彦間川は東沢と西沢に分かれている。ここから左の西沢林道に入る。狭い道で転回できる場所が少ないので、二俣から一kmほどの橋の袂に駐車して歩き出した。歩き出してすぐ林道端の岩に山神が祀られている。二〇分ほど歩くと行者の滝がある。ここまでは車が入れるが、この先は道が悪くなるので普通の車では入れない。

林道終点で沢を渡って右岸沿いの歩道を行く。すぐ奈良部山に源を発する沢が右から合流する。左の沢伝いに行くが、道ははっきりせず、ところどころに現れる程度である。両岸が狭まった所で岩棚に渡してある丸太が朽ちており、難所になっている。簡単には高巻けないので朽ちた丸太と岩場を手掛かりと足場にして慎重に通過した。ここを過ぎるとすぐ二俣になり、右に入る。

やがて道が左に登っていく箇所となるが、手前で沢に下りると沢が曲がった先に滝がある。三段で落差はせいぜい十m程度だが、黒沢大滝と名付けられている。戻って山腹を電光形に登る。ここを十八曲がりというらしい。登り切った所に石祠があり、明和五戊子稔(1768)四月吉日の銘がある。しばらく行くと根本山参詣路の丁石がある。「一り十一丁目 野州足利新中町 金屋重兵ヱ」と刻まれている。道ははっきりしないが、ここから左岸の斜面を行く。急斜面のうえ落葉が厚く堆積して滑り易いので滑落に注意が必要だ。

沢伝いに四十分ほど行くと次の丁石が現れる。「一り三丁目 野州足利新中町櫻屋藤兵ヱ」と記されている。そのまま沢伝いに行き、水がなくなる頃、大杉の下に不動尊が祀られている。享和二(1802)三月廿八日と記されている。二十八日は不動尊の有縁日である。ここから稜線が低く見える右の窪を目指す。藪はなく、低い笹の斜面を登り詰めると十二沢から登って来た林道に出る。林道を横断して斜面を登って尾根に出ると五分ほどで丸岩岳の東肩に出る。石祠があるが、造立者や年月日は記載されていない。

尾根をそのまま登れば丸岩岳山頂まで五分ほどで着くが、根本山への参詣路は右(東)の山腹を巻いている。丸岩岳を巻き終えると林道の脇を通る。一〇八四mの突起を越えると二十三丁目の丁石が倒れていた。「野州足利新中町 水石仁兵衛」と記載されている。その先に二十一丁目の丁石がある。「野州足利新中町 青木新吉 常盤緯亀八」とある。(緯は判読し難い)

上州側の丁石は「丁」だけだが、野州側参詣路の丁石は「丁目」と記載され、いずれも足利新中町の人が寄進している。歩き易い道を辿るとやがて熊鷹山の鳥居だ。参詣路はここから西側の山腹を行き、次の突起を東側から巻いている。稜線上に出たところに十三丁目の丁石がある。「野州足利新中町 錢屋作兵衛」とある。東側を巻いて井戸尾根分岐の西側を巻き始める所に六丁目の丁石が倒れている。寄進者は「野州足利新中町 内田秀八」とある。十二沢への分岐を過ぎるとまもなく氷室山と根本山の分岐となる。この分岐の山側に石祠がある。文化十二(1815)九月の造立年月がやっと読めたが、それ以外は摩減して判読できない。二丁目の丁石には「野州足利新中町 安田孝助」とある。「壹丁目」は他の丁石より大きいが、寄進者名は判読できない。すぐ先が十二山根本山神社である。

再建された新しい祠と二つの石碑があり、一つは「奉献根本山神宮 天保七戊申四月吉日」、「根本山神 文化十一」と記載されている。天保七年は1836年、文化十一年は1814年である。水盤(水鉢)には大きく根本山と刻まれ、弘化四丁未年(1847)四月吉日の奉納年月と「飛駒山大覚院清一代」ほか願主が列挙されている。立派な水盤であり、里宮にあるものと同じく市の文化財にする価値があると思う。この記述から飛駒里宮の大学院は大覚院とも表記していたことが分かる。

黒沢西沢林道最初の橋(40分)林道終点(10分)二俣(25分)黒沢大滝(20分)一里十一丁目(50分)不動尊(30分)丸岩岳東肩(40分)熊鷹山鳥居(50分)十二山根本山神社

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