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三峰山

桐生みどり 

 三峰山は鳴神山と吾妻山を結ぶ稜線上にあり、周囲の峰の中でも目立たない山であるが、江戸時代後期に秩父の三峰山を勧請し信仰の対象になっていた。
山田郡誌(昭和十四年)には以下のとおり記載されている。(一部略字体に訂正)

鳴神山脈中、鳴神山に次ぐ高峯にして海抜八〇八米、梅田村上久方・高澤の二大字と川内村大字山田舊名久木とに跨り、その形状宛も野牛の臥したるが如し。山貌秩父の三峯に似たるを以って夙に三峯の稱ありしが、文政年間武蔵國秩父郡三峯神社を合祀し、愈その名を確保するに至れり、山上に文政十年記銘の梵鐘を懸く。

 梵鐘は戦時中に供出させられて失われたが、山田郡誌によると次のとおり記銘があった。

文政十年仲秋日 亥丁 佐野天明大川四郎次藤原由貴

 山頂東の三峰山石祠及び金沢入口にある三峯山道の道標に文政9年と記されていることから1826年以前に三峰山から分祀されたものと推測される。
 また、川内側には三十六童子や不動尊などが祀られている。三峰信仰との関係はないと思うが、石造物に刻まれた年号は分祀された時代に近い。今回「やまの町 桐生」の関係者で川内側三峰登山道の石造物を見て回ったが、不動尊とその眷属(従者)である八大童子や三十六童子が祀られており、御岳講の対象地であることが判った。

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 三十六童子から三峰山

 川内側の登山道は名久木(なぐき)の大崩林道終点が起点である。林道終点には三峰山登山道の古い道標があるが、道は荒廃して判り難くなっている。林道終点から右岸沢沿いに付けられた道を行き、途中から沢を渡って右の支流沿いの道に入る。この分岐は判り難いが、ビニールテープの目印が付いているので見逃さないようにしたい。すぐ左側に三本杉と石祠がある。石祠は寛延元年(1748年)の年号と「上仁田山村分 従是峯酉小」と刻まれ、村から峰への入口を示している。ここからしばらく行くと左側の岩の下に如意輪観音が祀られている。「文久三(1863)年癸亥十一月吉日 大願成就所 願主 金子□□」と記されている。
 やがて沢に岩場が現れ、道は左に登って岩場を高巻き始める。沢はここで六、七メートルの滝になっており、その左の岩屋に不動尊が祀られている。この不動尊は風雨に晒されていないので鮮明であり、不動尊らしからぬ穏やかな像容をしている。滝の右手岩壁中にも不動尊と矜羯羅童子が祀られている。その他斜面に多くの石仏が祀られていたことが記録にあるが、殆どは沢に転げ落ちている。これらの像は不動尊の刻像塔を始め八大童子と記された文字塔、矜羯羅童子、制多迦童子、阿耨達多童子、指徳童子など不動尊八大童子の名が刻まれていた。文字塔の一つには武州入間郡と刻まれていたことから地元で祀ったものではない。この滝は清浄の滝と呼ばれており、付近一帯が御嶽講の行場だったという。
 八大童子から左の山腹を高巻き、尾根を乗り越す地点に着く。ここから道を離れて踏跡伝いに岩場の上に出ると頂に石祠が三つ並んでいる。「寛政元年(1789)己酉七月吉日 名久木村中」と刻まれており、地元で祀った山神である。
 元に戻って尾根を乗り越し、沢を渡って斜面を横断すると清浄の滝の上部に出る。その先で右に下る踏跡を辿り、小沢を渡って登り返すと烏天狗に出る。右手に三叉矛を持ち、背に羽を付けている。口が欠けているのが残念である。倒れているので起こして据え付け直したが、コンクリートで固定しないとまた倒れてしまうだろう。この烏天狗は厳つい姿ではなく、ずんぐりした幼児のような像容をしている。
 すぐ下にある断崖の際に石像がある。この石像は丸彫立像で、八海山大神とする説と三笠山大神とする説がある。右手に剣、左手に宝珠を持ち、円光背に怒髪の武神であり、その像容から八海山大神と判断した。大神と称するようになったのは主に廃仏毀釈以後なので正しくは八海山大頭羅神王である。烏天狗は八海山大頭羅神王を守護する眷属だと思う。
 元に戻って杉林の急坂を登って尾根に出たところに首が欠け落ちた石像が二体祀られている。落ちていた頭部を復元すると右手に矛、左手に牽索を持った円光背の武神像で、その像容から三笠山刀利天宮と判断した。以前新聞に連載された故藤井龍人氏の「桐生の石仏」では先の八海山大頭羅神王を三笠山大神としているが、その像容及び今回確認したこの石像の存在から八海山大頭羅神王に相違ないと思う。また、本家の御嶽では八海山が三合目、三笠山が五合目であり、その位置関係から下の石像が八海山、上の石像が三笠山であることも推測できる。ここにあるもう一つの石像は金剛鈴と弓を持った童子像である。
 御嶽三座神のうち2つが祀られていることから三峰山頂にある衣冠束帯姿の石像は御嶽山座王大権現ということになる。御嶽では山頂部に八大童子や三十六童子が祀られていることから御嶽三座神と一緒に不動尊及びその眷属である童子が祀られていても不自然ではない。麓の名久木には「御嶽山 三峯山」と記した道標があるのでこの地が御嶽講の対象だったことは明らかである。
 ここから電光形に付けられた道を辿ると三十六童子の文字塔と不動尊が祀られている。金剛童子の文字塔には安政三(1856)丙辰九月吉日と刻まれている。ここから少し登ると三峰山石祠と御嶽山座王大権現の石像が祀られた三峰山の山頂に着く。石祠は「明治四十(1907)年仲秋吉日 氏子中」と記されている。石像には仁田山村、小倉村、大間々町、如来堂村、廣沢村などからなる講中名が記されている。

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三本杉の石祠 石祠側面 上仁田山村分 従是峯
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如意輪観音 清浄の滝 岩屋に祀られた不動尊
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滝右の岩壁に祀られた不動尊 滝下に落ちていた不動尊 岩上にある石祠
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烏天狗 八海山大頭羅神王 三笠山刀利天宮
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三十六童子 三十六童子と一緒にある不動尊 金剛童子 安政三丙辰九月吉日
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三峰山頂 御嶽山座王大権現

 梅田から三峰山

 三峰山の参道は湯沢が起点で兼宮神社の脇に三峯山道の大きな石柱が建っている。しかし、ここから参道がどこを経由していたのか判らない。金沢峠を経由したと考える人が多いようだが、山頂の東と南に三峯山の石祠があることから山頂近くにまっすぐ登ったか、東側の稜線伝いに登ったのではないかと私は考えている。
 梅田三丁目の忠霊塔から尾根伝いに山頂まで踏跡が付いており、梅田側から三峯山への登路として利用されている。尾根上部に奥宮と呼ばれる石祠と妙見宮の石祠が祀られていることから尾根の上部が参道だった可能性が高いと思う。
 忠霊塔の裏から尾根伝いに登る。踏跡が付いているが、藪が少々うるさい。2基の石祠を過ぎ、四等三角点が設置された栗生山(341㍍)に着く。この先は藪が薄くなり、歩き易い。道に沿って大きな杉が並んでおり、三峰山参道の杉のように思える。494㍍の四等三角点を越え、稜線を登った先に妙見宮の石祠がある。石宮の側面に蛇と亀が彫ってある。蛇と亀を合体させたのが北方の守り神である玄武だ。妙見宮は北極星・北斗七星を信仰するもので仏式なら妙見菩薩を本尊とする。「奉造 文政十二(1829)□十月吉日 村内安全」と刻まれている。さらに登ると痩せた尾根の小さな岩場に三峯山石祠がある。ここが奥宮と呼ばれ、「文政九(1826)丙戌二月 眷属守護」と刻まれている。ここから急斜面を登り切ると三峰山頂に着く。
 帰途は金沢峠を経由して参道入口の兼宮神社に下る。山頂から少し南に下った所に三峯山石祠がある。山頂の石祠は明治末のものだが、山頂東の奥宮とこの石祠は三峰山を分祀した当時のものだ。稜線伝いに行くと金沢峠に着く。下り口にある鏡石を観察すると表面の一部が磨かれて光沢があり、鏡石の由来が分かる。峠直下まで来ている作業道を下るとまもなく舗装路となり、金沢の山村風景を見ながら下り切ると兼宮神社に着く。

 忠霊塔(25分)栗生山(1時間10分)494㍍三角点(25分)妙見宮(25分)三峯山石祠(10分)山頂(30分)金沢峠(1時間)兼宮神社

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三峯山道の道標
東の尾根から三峰山
妙見宮
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玄武の蛇 三峯山奥宮 山頂南の三峯山石祠

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