桐生地域の地質(1)





1 はじめに
 桐生地域は足尾山地のほぼ南西の関東平野と接する位置にあります。桐生地域の地勢は、北から東に高く、鳴神山(979m)、残馬山(1107m)、三境山(1088m)、根本山(1199m)などの1000m級の山々が連なっています。一方、南から西に低く、主に渡良瀬川が作った平地の海抜は100m前後になっています。
 足尾山地は、北の日光火山群、西の赤城火山、南と東の関東平野で区切られた山塊のブロックとみることができます。この足尾山地のブロックは、大きくみると、全体がほぼ南に傾いて関東平野に沈みこんだ傾動地塊になっています。
 この足尾山地の傾動地塊と赤城火山と関東平野を区分けるかのように渡良瀬川が流れています。しかし、この現在の渡良瀬川の流れ方は大変不自然です。渡良瀬川は、大間々町で関東平野に奔流する直前に、流れを南東方向に直角に曲げて、桐生方面へ流れ込みます。この流れ方はいかにも不自然で、渡良瀬川の過去の変遷を暗示しています。
 私たちの日常生活は、山々に囲まれていながらも、ほとんど平地の部分で営まれています。この生活の舞台となっている平地のほとんどは、渡良瀬川と桐生川が過去に堆積した地層なのです。この平地の背景となっている山々も、これらの河川の砂礫の供給の源です。これらの山々は、はるか太古に作られた地層で形成されています。私たちの生活の基盤となっている大地は、さまざまな歴史をもった地層から成り立っているのです。人間社会と同じように、郷土の大地は、新旧の歴史を織り交ぜて存在しているわけです。それでは、これから郷土の大地の歴史をみていきましょう。

2 足尾山地の地質
 足尾山地の地層は、総じて足尾層群または足尾帯と呼ばれています。足尾山地を構成する主のな地層は、チャート、泥岩、砂岩、凝灰岩、石灰岩などの海成の堆積岩と、火成岩類、および堆積岩が熱を受けて変質したホルンフェルスの変成岩です。これらの地層の年代は、中生代が大半で、古生代の後期と新生代もあります。
 全国的にみると、足尾山地の地層は、京都地域の地層(丹波帯)とよく似ていて、岐阜県南部(美濃帯)、八溝山地、北上山地の南部にもよく似た地層があり、これらは同一起源の地層と考えられいます。近くでは、秩父地域を含む神流川地域の関東山地の一部に、よく似た地層があります。
 戦前から、足尾山地の地層は秩父古生層といわれ(原田豊吉 1889年)、以来その名のとおり古生代の地層と考えられてきました。ところが、大間々町の林信悟氏が日本で最初にコノドント化石を発見。さらに1968年、足尾山地から同氏によって報告されたコノドント化石は、中生代の初期を示す化石でした。古生代と考えられていた地層から中生代の化石が発見されたことは、地質学会でも大きな衝撃でした。ちょうど、相沢忠洋氏の岩宿の発見の地質学版といった感じです。かくして、中生代・古生代の境界問題が全国的に取り上げられる契機となりました。
 そんな中で1970年、林信悟氏を中心にコノドント団体研究グループが全国組織で結成されました。筆者も地元メンバーということで、この研究会の事務局を担当しました。かくして、浅学の筆者が地質学にのめり込むきっかけとなりました。

3 桐生地域の地質
(1)石炭紀
 郷土の大地の生い立ちは、およそ三億年前の石炭紀にさかのぼります。鳴神山のチャート層から、およそ三億三千万年前のコノドント化石発見の報告があります。(林 1981年)。大間々町の高津戸峡付近や小平の八王子山の石灰岩からは石炭紀のサンゴ化石が発見されていいます。最近、梅田町一丁目西方寺沢の石灰岩からも石炭紀のサンゴと思われる化石が発見されました。 
 足尾山地でも石炭紀の地層の存在が確認されたのは、この桐生周辺だけです。ただし、足尾山地における石炭紀の地層は、分布の割合としてはごく少ないものです。群馬県内では、多野郡の関東山地でも石炭紀の地層が報告されています。関東では、これ以上古い地層は今のところ発見されていないので、これらの石炭紀の地層が関東では最古の地層になります。
 さて、この今から三億年ほど前の数千万年間を石炭紀と呼ぶのは、名のとおり、石炭がたくさん作られた時代だからです。この時代の大陸には、リンボクやロボクといった10mも20mもある巨大なシダ植物が繁茂していました。これらの植物が大量に堆積して石炭層ができたのです。ヨーロッパのあの産業革命のエネルギー源となったのも、この石炭紀の石炭でした。
 いま、地球温暖化の問題として、二酸化炭素の増加が取り上げられていますが、石炭紀の地球上は、大気中にも海水中にも二酸化炭素が今よりもたくさんあり、当然気候も温暖でした。この豊富な二酸化炭素を使って、陸上では巨大な植物が茂り石炭層ができ、海ではサンゴが大量に生息し、石灰岩が作られました。こうして二酸化炭素が消費され、地表の酸素の割合は次第に増加しました。
 日本に石炭紀の石炭が少ないのは、当時、中国大陸は日本海あたりまで広がってはいたものの、現在の日本列島から東はほとんど海域だった、と考えられています。しかし桐生周辺では、チャートを堆積した深い海の地層からはコノドント化石が発見され、石灰岩を堆積した浅い海の地層からはサンゴ化石が発見されるのです。このことは、当時の海が次第に陸化していたことを物語っているのかも知れません。

(2)ペルム紀
(ア)ペルム紀と桐生
 今からおよそ二億六〜七千万年前、ペルム紀と呼ばれる時代になると桐生地域の大地の情報は急激に増えます。発見される化石の種類が増えるからです。やはりこの時代も、現在の日本列島あたりは、ほとんどが海域でした。当時、テーチス海と呼ばれる海が、現在の地中海を拡大し、さらに東に延ばした形で、現在の日本列島近くまで続いていました。ヒマラヤ山脈などは、このテーチス海が隆起したものです。
 さて、この地球上で海に対するのは山で、海と山とは相容れないもの、と思いがちです。とくに私たちのように海なし県に住んでいると、郷土と海とは関係ないように思われます。しかし実際は逆で、海へ行ったのでは過去の海は見られません。大地の歴史が凝縮されている地層の崖の山肌から、むしろ明らかに過去の海を見ることができます。たとえば、桐生川上流の凝灰岩の近くの石灰岩の崖から、サンゴやフズリナ、海ユリ、サメの歯などの化石を採集することができます。そこで、この崖を前にして、往時の海の様相を目に浮かべることができるわけです。―暖かい澄んだ海水の中、赤や緑のサンゴ礁の間には、海ユリがゆらゆらと揺れ、三葉虫は砂の上をはい回り、その上をサメが優々と泳いで行く。空を飛ぶ鳥の姿はまだなく、遠浅の静かな海面には灰色のぶ厚い雲が覆い、遠くの海底火山からは火山灰が帯状に漂って来る。
(イ)桐生地域のペルム紀の化石
1)三葉虫
 1973年、桐生川上流地域の梅田町五丁目津久原の石灰岩層から、関東地方で初めて三葉虫化石が発見されました。それは古生代と中生代の地層の境界問題が、全国的な研究テーマになっていて、全国から研究者が集まって、桐生川上流地域の津久原付近を地質調査していたときの発見です。たしか暑い日でした。国立科学博物館研究員の斉藤靖二さんが、グループに分かれての調査から戻ってきながら、「三葉虫を発見したよ!」とニコニコしながら言いました。最初は冗談かと思いましたが、実物の化石を見て驚きました。翌日か二日後の新聞の全国版に「三葉虫発見」のニュースが載っていました。
 その後、栃木県の葛生町でも、二個体だけ三葉虫化石が発見されました。これで三葉虫化石の産地は、関東地方では二カ所になりました。しかし、三葉虫化石の産出は、葛生町よりも桐生川上流地域の方が、はるかに豊富です。桐生地域からは、数多くの三葉虫化石が採集できるので、桐生地域だけが関東地方での三葉虫の化石の産地みたいなものです。桐生地域で発見された三葉虫は、新種でシュード・フィリプシャー・キリュウエンシスと命名されました。化石の名前は、ラテン語を用いる決まりになっていて、キリュウエンシスとは「桐生の生き物」という意味です。化石に桐生の名前がついたのは、これが最初でしょう。
 三葉虫は、昆虫類で代表される節足動物の仲間で、節足動物の中でも原始的な形態をしていてカブトガニやクモ・サソリに近縁です。三葉虫の体は、固いキチン質の外骨格で覆われていた、と考えられています。外国では、脱皮している姿そのままで化石になった三葉虫も見つかっています。桐生地域で発見される三葉虫も、ほとんど頭だけとか尾の部分だけの状態で発見されます。これも脱皮した殻が化石になった可能性もあります。
 三葉虫の体長は、普通3〜5cmくらいですが、特別大きな種類でも60〜70cmくらいです。桐生で発見される三葉虫の大きさは、頭・胸・尾を合せて一匹分にすれば2〜3cmくらいです。普通は、小指の爪くらいの大きさで発見されます。三葉虫は脚の形態から、海水中を泳いだり、海底をはい回ったり、砂や泥にもぐったりしていた、と考えられています。桐生の三葉虫の化石も、主に砂質の石灰岩から見つかることから、砂にもぐったり、砂上をはい回っていたことが想像されます。
 三葉虫が地球上に出現したのは、今からおよそ五億五千万年前。その仲間は三億年間生き続け、一万種類もの三葉虫が栄えては滅んでゆきました。多くの種類が短期間で滅んだということは、その化石が時代決定に役に立ちます。したがって三葉虫は、古生代の各時代を区分けできる重要な化石なのです。桐生の三葉虫は、三葉虫種の長い歴史の最後、絶滅直前に出現した三葉虫だったのです。
2)サンゴ
 桐生川上流地域の津久原付近の石灰岩層からは、サンゴの化石が比較的広範囲で見つけられます。三境山中腹の石灰岩から、サンゴ化石を採集したこともありました。桐生地域から産するペルム紀のサンゴ化石は、当時サンゴ礁をつくっていたサンゴ、と考えられるものもあります。畳一枚ほどもある岩が、ほとんどサンゴの群体の化石になっているのもあるくらいです。
 サンゴ類は腔腸動物に属し、クラゲやイソギンチャクの仲間です。サンゴ類は、イソギンチャクに骨格がついたような形態をしています。この骨格が石灰質で化石になるわけです。サンゴの化石は、当時の環境を知るのに最適です。サンゴ礁をつくる群体のサンゴは、限られた環境の中でしか生きられないからです。ただし単体のサンゴは、南極でも発見されているくらいで、どこでも生息可能のようです。普通サンゴ礁ができる自然条件は、海水温度の適温は25〜29度、水深40〜50mよりも浅く、太陽光線がよく届き濁っていないこと、海水の塩分濃度が約3.5%であることなどが知られています(沖村雄二 1987年)。桐生川上流のサンゴ化石を含む石灰岩も、ほぼこんな環境で堆積したと思われます。ほとんど、熱帯性気候と考えてよいでしょう。
 赤や緑のサンゴの美しい色は、実はほとんどがサンゴ中の体内に共生する藻類の色なのです。この共生藻類は、サンゴの排泄物や呼吸で出された二酸化炭素をもらって、光合成により酸素と栄養分をつくりサンゴに与えます(森啓 1989年)。サンゴ礁をつくるサンゴが、光のよく届く環境でしか生きられないのは、この共生藻類の光合成のためだったのです。
 桐生地域のサンゴ化石は、四射サンゴの仲間です。四射というのは、幼生の初期の浮遊生活から海底の付着生活に変わるころ、からだが放射状に四つにくびれるからです。四射サンゴ類は、古生代オルドビス紀に出現してペルム紀に絶滅しました。およそその間の二億五千万年間、四射サンゴ類の仲間は生き続けました。
 四射サンゴの研究でおもしろい事実がわかりました。サンゴには、木の年輪のように、毎日の成長が骨格に残っていたのです。そして太古の昔ほど、一年が三六五日よりも多かったことがわかったのです(WELLS 1963年)。ちなみに、桐生地域のサンゴ化石の時代は、一年が三八五日ほどでした。
3)フズリナ
 桐生および桐生周辺の石灰岩層は、よくフズリナの化石を含んでいます。石灰岩があれば、他の化石はなくも、フズリナだけは発見できる、といえるくらい古生代後期の一般的な化石です。
 フズリナは、原生動物の中の有孔虫類に分類されます。したがって、アメーバーやゾウリムシの仲間になります。原生動物ということで、フズリナも単細胞動物ですが、桐生から産出するフズリナの大きさは、1cm近くありますから、大きな単細胞動物です。フズリナは、厚い殻をしていて重いので、海の底にいた、と考えられています。一緒に発見される他の化石などから、浅い水のきれいな暖かい海に生活していた、と考えられています。
 フズリナの化石の断面を見ると、渦巻状の内部構造をしているのがわかります。そこでフズリナは、中心部から渦巻状に成長した、と考えられています。この渦巻構造は、種類ごとに異なっていて、進化したフズリナほど複雑な形をしています。桐生産のフズリナもかなり複雑な形をしています。
 フズリナの殻は、貝殻と同じ炭酸カルシウムでできています。炭酸カルシウムは、石灰岩の主成分なので、フズリナの死骸が大量に海底に堆積すれば、石灰岩ができます。事実、桐生川上流津久原付近には、こうしてできたフズリナばかりの石灰岩があります。一方、大間々町小平には、石灰岩でなく、チャートになったフズリナが発見されています。フズリナの炭酸カルシウム成分が、ケイ酸塩成分に入れ変わって化石になったもので、全国でも珍しい化石です。
 フズリナは、今からおよそ三億五千万年前の古生代石炭紀に出現し、およそ二億五千万年前の古生代ペルム紀に絶滅しました。その一億年間に、五千種以上ものフズリナが現れては消えていきました。やはり種の生存期間が短いので、地層の時代判定に非常に有効な化石となっています。桐生のフズリナの多くは、パラフズリナという絶滅寸前の大繁殖の種でした。
4)ワンソク動物
 桐生川上流地域の石灰岩からは、写真のような化石が数多く発見されます。一見アサリやハマグリなどの二枚貝類のようですが、二枚貝類よりは高等な動物でワンソク動物といいます。
 ワンソク動物は、体内部の器官や構造が、軟体動物の二枚貝類よりもはるかに複雑になっています。普通ワンソク動物は、大きさの異なる二枚の殻をもっていて、片方の殻に穴が開いています。この穴から筋肉質のアシを出して、海底の砂の中に刺したり、石に付着したりして体を支えていました。このアシが、ワンソク(腕足)という名の由来です。桐生産のワンソク動物の化石の中には、殻にヒゲ状のトゲのあるものも見つかっています。やはりトゲで他の物に付着して生活していた種類でしょう。
 ワンソク動物は、古生代より前の時代のおよそ七億年前に出現し、古生代の中頃に大変栄えました。その後は衰退し、二枚貝類に座をゆずりました。ワンソク動物は、現在も細々と生き続けています。かつて生存していたワンソク動物は数千種類になるといわれています。桐生産のワンソク動物の化石も、多くの種類が見つかっています。とくにリットニア種は、テーチス海の代表的な動物として重要です。
5)海ユリ
 海ユリの化石は、桐生周辺に分布する石灰岩層から、一般的に産する化石です。フズリナ化石と同様に、ほとんどの石灰岩に海ユリが入っています。海ユリの形は、その名の通り植物の百合に似ています。しかし、海ユリはキョクヒ動物といって、ウニやヒトデの仲間に分類される動物です。海ユリの体長は普通数十cmくらい。体は、百合の花の部分に相当する臓器のつまったガク、長い茎、海底に付着する根の各部からなっています。ちょうど、ヒトデに長い足が生えた格好になります。化石になるのは、ほとんどが茎の部分です。桐生地域から産出する海ユリ化石も、茎の部分以外は見たことがありません。
 海ユリの体は、ウニのように、硬い石灰質のヒフ状骨格に覆われています。一般に海ユリは、群生で、他物に固着していた、と考えられています。したがって、たくさんの海ユリの死骸が堆積すると、石灰岩ができました。桐生川上流地域の石灰岩にも、細かい海ユリばかりでできた石灰岩があります。いわば、海ユリの墓場といった感じです。
 海ユリが出現したのは、今からおよそ五億年前です。現在の海底でも、子孫はわずかに生息していますが、海ユリが栄えたのはやはり古生代です。かつて、およそ数千種類の海ユリが生存した、といわれています。
6)コケ虫
 桐生川上流地域の石灰岩層からコケ虫の化石が採集されます。写真で網目状に見える部分がコケ虫です。その1mmたらずの網目の一つ一つに、一匹ずつコケ虫が入っていました。写真は、コケ虫のアパートみたいなもので、石灰質の抜け殻が化石となったものです。このようにコケ虫は、群体をつくり、海底の海や植物や岩に付着していました。コケ虫は、海岸に近い浅い澄んだ海水を好んだ、と考えられています。餌は、ケイソウや放散虫などのプランクトンといわれています。
 コケ虫の体は、サンゴ類に似ていますが、口と肛門が別になっていて、サンゴ類よりは高等な動物で、外肛動物に分類されます。コケ虫が出現したのは、今からおよそ五億年前の古代オルドビス紀で、現在も世界の各地で生息しています。この五億年間に、一万種以上のコケ虫が出現した、といわれています。桐生産のコケ虫は、ほとんどがフェネステラ属のコケ虫です。日本でのコケ虫化石の研究は、大変遅れていて、ほとんど未知の分野です。
7)コノドント
 コノドントとは奇妙な名前ですが、化石も変わっています。昔は、一般には知られてない名でした。最近は、大間々町にコノドント館ができたりして、少しは知られるようになりました。桐生周辺の足尾山地は、日本におけるコノドント研究発祥の地ですので、少し詳しく見てゆきましょう。
 はじめに述べたように、コノドント化石を日本で最初に発見したのは、大間々町在住の林信悟氏でした。林氏は、大学の卒業論文の調査のために、黒保根村上田沢のチャート層を調査していて、偶然コノドント化石を発見しました。当時は、コノドントを調べるのは、岩石の表面をそのまま見るか、岩石を薄くして光を透過させ顕微鏡で観察しました。
 その後も林氏は、コノドントの研究を続けました。最初の発見から十年して、ついに、今度は世界で最初に薬品を使って、チャートの岩中からコノドンだけを取り出すことに成功しました。最初の発見は、確かに偶然でした。しかし、その後の十年の努力は、必然的にどのチャートからも化石を抽出できるようにしました。偶然を必然に変えるのが、科学本来の使命なのです。これは、世界的な発見でした。それまで無化石と考えられていたチャート層から、化石が取り出せるようになったのです。現在では、桐生周辺や足尾山地だけでなく、全国各地からコノドントが発見されるようになりました。その結果、より明確に日本の中生代・古生代の地質区分ができるようになりました。
 コノドントを世界で最初に発見したのはロシアのパンダーでした。1856年、東ヨーロッパのバルト海沿岸のシルル紀の地層からの発見でした。パンダー氏は、コノドントを魚の歯の化石と思い込み「円錐状の歯」という意味のギリシャ語で、コノドント(CONODONT)と名付けました。名前の通り、コノドントは必ずのこぎりの歯のような突起を持っています。
 コノドント化石は、大きさ1mmたらずの微化石です。したがって、顕微鏡で見ます。化石の色は一般にコハク色ですが、桐生周辺のコノドントは暗灰色が普通です。これは桐生周辺の地層が、熱などを受けて全体に変質しているためでしょう。コノドント化石の成分はリン酸カルシウムで、比重は2.8〜3.1で方解石よりも重いことになります。コノドントを薄く切って、顕微鏡で観察すると、成長線が見られます。成長の仕方は、歯の成長を思わせますが、コノドントは、一度欠けても再生する器官だったことがわかっています。ということは、コノドントは歯ではあり得ません。
 それではコノドントは、一体どんな動物の何の器官だったのでしょうか。コノドントが何であるかは、発見以来、百年以上も古生物学の謎でした。今世紀における古生物学最大の謎ともいわれました。コノドントの正体をめぐって世界中から様々な説が発表されました。カブトガニやシャコなどのトゲ状突起物(ハリ−レイ 1861年)、巻き貝の歯舌説(ジェイムス 1884年)、サメの皮説(ウ−リッヒ、バスラ− 1926年)、円口類の歯説(フ−ディル 1934年)、環形類のアゴ説(デュボア 1943年)、藻類説(ファルブッシュ 1963年)、などと多くの説が出されました。しかし、どの説も説得に十分なものではありませんでした。
 そして、ついに謎が解けたかのような発表が世界を駆け巡りました。1973年、アメリカのメルトンとスコットは、「我々はついにコノドント動物の正体を究明した」と宣言しました。モンタナ州の石炭紀の石灰岩層から、体長6cmほどのナメクジウオによく似た動物の腹部に、コノドントが入っている化石を発見したのです。コノドントは消化に関係する器官と考えられました。私たちコノドント団体研究グループに、この新発見の報告が入ったのは1973年の末でした。当時、凄いニュースだと、皆驚いたのを記憶しています。早速林信悟氏が中心となって、分厚い英文の報告書を翻訳して国内に伝えました。ところが何年か経って、この新発見は間違いであったことがわかりました。化石動物の腹部にコノドントがあったのは、この動物がコノドントを食べたものだ、ということが別の研究者によって証明されてしまいました。
 1993年、今度はどうやら本物と思えるコノドント正体の発見の報告がありました。イギリスのブリグスらの研究グループは、エジンバラ近くの石炭紀の砂岩から、コノドントの入った外見がヤムシに似た動物の化石を発見しました。体長は4cm前後で、頭部にコノドントが付いています。コノドントは、プランクトンなどの小さな食物を切ったり、すりつぶすのに使われたと考えられています。分類状、コノドント動物は、原始的な脊椎動物と考えられています。
 コノドントの正体は長い間不明でしたが、化石としては大変有用でした。コノドントは、進化が著しく、各時代ごとに違った形をしていて、地層の時代区分に大変役に立っていました。コノドント種の生存期間が短いほど、そのコノドント化石を含む地層の時代が、明確に判定できることになります。とくに、早くから研究の進んでいた外国では、石油の発見などによく利用されてきました。
 コノドントは、およそ五億年前の古生代カンプリア紀後期に出現し、およそ二億年前の中生代二畳紀後半に絶滅しました。その三億年間に約五千種ほどのコノドント化石が確認されています。その五千種のほとんどは、外国人によって発見・命名されたものです。しかしその中には、桐生周辺で発見されたコノドントが模式種となって、命名されたものも数多くあります。たとえば、中生代三畳紀の典型種をたくさん含むメタポリグナ−タス属は、主に桐生周辺で発見された種を基に、林氏が提唱し、認められたものです。(チェコスロバキア会議 1980年)

(3)中生代
(ア)放散虫
 つい最近まで、桐生周辺の地質は秩父古生層に属するから、中生代の地層はない、と考えられてきました。しかし、コノドントの研究によって、桐生周辺の山々を構成するほとんどの地層が、中生代の海の堆積層であることがわかりました。さらに、コノドント研究のために開発されたチャートをフッ酸(HF)で溶かしてコノドント化石を取り出す技術が、放散虫化石を取り出すのにも使えることがわかったのです。思わぬ副産物で、今や全国各地から放散虫化石が発見されるようになりました。その結果、やはり古生代と考えられてきた国内の多くの地層が、中生代の地層だったことがわかりました(中世古・水谷・八尾 1983年) 。こうして桐生周辺の地層からも、およそ一億五千万年前の中生代ジュラ紀の放散虫化石が発見されるようになりました。
 コノドント動物は、中生代前期の二億年ほど前に絶滅しましたが、放散虫は古生代の始めから現代まで生き続けています。したがって放散虫化石は、中生代中期以降の新しい時代の年代決定に大変有効になりました。しかも放散虫類は、浮遊性生活のため、どこの海でも生息が可能で、ほとんど世界中に分布していたらしく、多くの堆積岩から産出し、化石による地層の対比がしやすいのです。地層中に含まれている化石の量として、コノドントも数が多い方なのですが、放散虫の場合はもっと数多く大量なのです。とくにチャートの場合などは、チャート自体がほとんど全部放散虫からできている、といったものも良く見つかります。
 放散虫は、一般に大きさが5分の1mm前後と小さいので、普通は顕微鏡で見ます。放散虫は、原生動物の偽足虫類に分類され、アメ−バやフズリナの仲間です。もちろん、単細胞の動物で、体は一般に原形質の軟らかい部分と硬い殻から構成されています。そして、長い時間をかけて、ケイ素成分の殻が海底にたくさん堆積すると、チャートなどの堆積岩がつくられます。ちなみに、チャートは95%以上が放散虫の殻と同じ成分です。石器時代の矢じりに盛んに使われたチャートは、1〜2億年前の深海の放散虫の遺骸だったのです。
(イ)一億五千年前の海底地すべり
 桐生市菱町三丁目の八坂橋すぐ上流、桐生川砂岩の亀が淵と呼ばれる釣りに適した岩場があります。この岩場は、その地層が太平洋の真ん中近くにあったとき、大規模な海底地滑りによってできた地層だった、ということがわかりました。たまたま筆者が、公民館行事の地層観察会の下見調査中に見つけたものです。これほどわかりやすくみごとな海底地すべりの地層が、人目につく身近な場所で発見されたのも珍しいでしょう。このような海底地すべりの地層の存在が、知られるようになったのは、全国でもほんの最近のことです。
 なぜこの地層が海底地すべり層なのか、というと次の通りです。1同じ地層の中にチャート・砂・泥が入っている。2砂泥が主体の層中に、チャートと砂岩がやや角のとれた石ころ(礫)として入っている。3大きい玄武岩質の溶岩が主体の部分(約20m)があるが、この部分も別の地層でなくて、同一の砂泥層の一部と考えられる。つまり、大きな玄武岩質の溶岩も一個の石ころ(礫)と考えられる。4石ころを含めて、層全体が一定の方向性を持って堆積している。というのが理由です。
 もう少し詳しく説明します。チャートは大洋起源の岩石で、千m単位の深い海底で、主に放散虫などの微生物の遺骸が堆積してできます。砂岩や泥岩は、陸に近い浅い海底でできる地層が起源です。さらに普通は、泥岩の地層の方が、砂岩の地層よりも陸から遠い深い海でできます。このように、生成される場所が根本的に違うので、チャート、砂岩、泥岩は同じ場所で同時にはできません。この矛盾を解くには、それぞれに一度つくられた地層が、運ばれてきて再び地層になった、と考えるしかありません。そこで、この亀が淵の地層は、次のようにしてできたと推定されます。
 およそ二億年ほど前、太平洋の深海にチャート層がつくられた。別のより浅い海域では、海底火山により玄武岩質のマグマが海底に流れ出し、溶岩層ができていた。このチャート層と溶岩層は何千万年かかかって、海洋底の移動(プレ−ト・テクトニクス)によって日本列島方向に移動していた。およそ1〜1.5億年前、やや日本列島に近い砂岩・泥岩が堆積しているあたりの海までチャート層と溶岩層は移動していた。そこで、あるとき大きな海底斜面で大規模な海底地すべりが発生し、チャート層や溶岩層は押し流され、砕かれ、石ころとして砂泥層の中に堆積し、亀が淵の地層の原形がつくられた。水中での物体は、比重が一だけ軽くなるので、陸上では重そうに見える岩石も、軽くなった水中では地すべりが起こりやすいのです。さらに、海洋底は日本列島方向に移動し、陸化し、足尾山地の一部になり、風雨に侵食され、 最後に桐生川の流れに洗われて現在の姿になった、と考えられます。

 この海底地すべり地層は、約3km離れた上菱の金葛、さらに桐生川上流の梅田町五丁目津久原あたりまで分布しているようなので、相当大規模なものだったと思われます。それにしても、太平洋の真ん中あたりの、真っ暗な深海で生まれ、文字どおり一生日の目を見ないはずの地層が、数々の出来事に遭遇して日本列島まで流れつき、地表に顔を出し、今静かに地層としての余生を送りながら、人間にぽっつりぽっつりと、身の上話を語りかけている露頭なのです。
 この亀が淵の地層の例のように、太平洋の海底地質は、一年間に何cmかずつ日本列島方向に移動し・押し寄せています。この押し付ける巨大な圧力が、日本列島を地震列島・火山列島にしているのです。桐生川上流で熱帯性気候生物の化石が採れるのも、実は太平洋の海底地質が、桐生の地まで移動してきているからなのです。
(ウ)サラサ石
 桐生川の名石はサラサ石です。サラサ石は、桐生市内でごく一般的に見ることができる庭石です。赤と白の入りまじった美しい石を、サラサ(更紗)とは織物の街らしい洒落た命名の仕方です。サラサ石の母岩の産出地は、桐生川の上流と菱町の黒川の上流といわれています。サラサ石の母岩から切り離された岩石が、桐生川や黒川に流され角がとれ、砂に磨かれ水に洗われ、美しい庭石ができあがります。サラサというのは、木綿地や絹地に模様をプリントした布のことだそうです。インドサラサやジャワサラサは、昔から有名です。
 京都の丹波山地は、桐生と似た地質になっている、と先に記しました。やはり丹波山地でも、サラサ石と同じ岩石を産出しています。京都ではこの岩石を「紅加茂石」とか「赤白珪石」と呼んでいます。
 このサラサ石は、岩質としては硬質頁岩とかチャートといった感じです。しかし、チャートなどの普通の堆積岩とは思えない顔つきです。サラサ石はなぜ赤と白のまだら模様になっているのか、どうしてできた石なのか、詳しいことはわかりません。まだ、詳細に調べた人はいないのです。しかし、おそらくサラサ石は、チャートが熱と力を受けて変質したものではないでしょうか。つまり、海底下の深部でチャート層が、さらに深い所から突き上げてきたマグマの熱と力で、溶けたり砕けたりし、やがてマグマの活動が弱まると、冷えて再び固まったのではないでしょうか。まだら模様になっているのは、細かく砕かれもまれたためで、白い部分は溶けて再び固まった部分でしょう。接触して熱を与えたのは、おそらく玄武岩質マグマでしょう。
 この根拠としては、吾妻山のトンビ岩の辺りで、玄武岩質溶岩の中に小さなチャートが取り込まれていて、そのチャートが赤く変質しているのを観察したことがあります。これは、玄武岩質マグマが海底に噴出するときに、出口を塞いでいたチャート層をぶち抜いて、さらにチャート層の一部を取り入れて溶岩となった、と考えられるからです。
 それでは、サラサ石ができたのはいつ頃でしょうか。この年代は、ほとんどわかりません。古いとすれば二億年以上古く、新しければ一億年近く前、としかいいようがありません。
(エ)渡良瀬みかげ…九千万年前の地層
 渡良瀬みかげ(御影)と桜石は、渡良瀬川を特徴づける石です。桐生の平地をつくっている新しい時代の地層が、渡良瀬川と桐生川のどちらによる堆積かを見分けるのには、この渡良瀬川を特徴づけるみかげと桜石の有無で、まず決まります。
 渡良瀬みかげは、沢入(そうり)みかげとも呼ばれますが、岩石名でいうと花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という火成岩です。普通は簡単に花崗岩といわれています。東村沢入の草木ダム周辺の各所で白っぽく山肌を現わしているのが、みかげの地層です。ここのみかげ石の分布は、東西に約6km、南北に約12kmと広範囲に及び、足尾町にまで続いています。
 足利市の松田川と名草川の上流、名草地域にも渡良瀬みかげと起源を同じくする花崗岩が、1.5kmの範囲で、ごく小規模に分布しています。名草巨石群と呼ばれ、国の天然記念物に指定されているのが、その花崗岩です。名草巨石群には、弁慶の割石・お供え石などと名のついた、角のとれた大石が散在していますが、全国的にはそれほど珍しいとうことではありません。花崗岩は結晶質なため風化に弱く、地層の割れ目から水などが入り込むと、外側からボロボロと崩れて、川原の石のように角のとれた大岩ができます。このとき崩れて砂になったのがマサ(真砂)とかマサツチと呼ばれ、よくゲートボール場などに敷かれる質の良い砂です。
 みかげ石つまり花崗岩は、地下深部のマグマが地表近くに上昇し、地中で冷えて固まったものです。渡良瀬みかげができたのも、おそらく深さ2〜30kmの地下深部で、マグマが何万年かかかって冷え固まったものでしょう。その時代は、ちょうど地上では恐竜が大いに栄えていた、およそ九千万年前の白亜紀のことでした。渡良瀬みかげを見ると、石英と長石と雲母と角閃石(かくせんせき)の結晶だけでできています。この結晶が、マグマが地下深部で固まった証拠です。
(オ)桜石
 渡良瀬川で拾える桜石は、固く黒っぽい石の表面に、5〜10mm位の細長い模様の入った石です。この模様が、桜の花びらに見えるというわけです。渡良瀬川の桜石は、岐阜の菊花石、門司(もじ)の梅花石とともに日本を代表する花紋石として有名です。
 桜石は岩石の分類上では、変成岩の菫青石(きんせいせき)ホルンフェルスと呼ばれます。桜石は砂岩や泥岩が、地下深くで強い熱を受けて変質してできました。熱で溶けて再び結晶になった部分が、桜の花びら状に見えます。この花びらの部分は鉱物としては菫青石の結晶です。そして、この桜石に熱を与えたのが、渡良瀬みかげをつくった花崗岩マグマです。その証拠には、桜石を含むホルンフェルスの地層は、渡良瀬みかげの地層に接した所にしかありません。足利市名草の花崗岩層の周辺にも、黒色の固いホルンフェルスの地層はありますが、菫青石の結晶の桜石はほとんどありません。
 真っ暗な地の底で、真っ赤な灼熱マグマの熱を受け咲いた菫色した結晶の花弁、九千万年後に地上に現れた石の花、これが桜石なのです。

藤井 光男(日本地質学会会員)

桐生地域の地質その1はここまでです。近々その2(新生代から)の掲載を開始します。
楚巒山楽会代表幹事

 


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