伝承地名から古代砂鉄供給地と砂鉄選鉱地跡を発見 〜5万年前の古梅田湖の砂鉄層と古代菱の鉄生産〜

藤井光男(桐生市立西公民館勤務)


1はじめに
桐生市菱町五丁目塩宮神社裏から、古梅田湖の地層が新たに露出したことにより、古梅田湖が存在したことが確固なものとなった。また、この湖成層に砂鉄が多く含まれていることから、菱地域に特に多い古代製鉄遺跡の製鉄原料として使われたであろう砂鉄が、大量に採掘された跡が確認できた。さらに、古代から伝承されてきたトイクチの地名がヒントとなって、砂鉄を選鉱した跡地であると考えられる鉄穴(かんな)流し跡が発見できたので、ここに報告する。
2古梅田湖
およそ五万年前まで、桐生市梅田2、3、4丁目と菱町5丁目に古梅田湖があった。桐生川が堰止められてできた湖で、現在の梅田南小学校や梅田中学校が湖底のほぼ中央に位置する規模の湖である。古梅田湖が存在したことは、地形を見てもわかりやすい。観音橋を過ぎて、梅田公民館への入り口あたりから粟生の坂が急になり、忠霊塔の下を過ぎると平らになる。平坦は、中居橋を過ぎて猿石のあたりまで続く。この平坦部が、古梅田湖の湖底にあたる。
一方、粟生の坂は、湖の堰が決壊して湖底の地層が押し流され、侵食された部分にあたる。したがって、古梅田湖の堰は、粟生の坂よりも下流に存在していたことになり、観音橋のやや上流辺りに堰があったと考えられる。
古梅田湖がいつ存在していたかは、梅田町3丁目高沢の忠霊塔下の地層からわかる。ほぼ水平で細かい縞模様の古梅田湖層の上に、湖がなくなり水が退いた後の八崎軽石層が堆積している。八崎軽石は、およそ5万年前に榛名火山が噴火して降らせた軽石なので、古梅田湖層が堆積したのはそれよりも少々古いことになる。少なくも、5万年前近くまでは古梅田湖が存在していたことになる。
古梅田湖の大きさは、図の通り。高沢の忠霊塔下の湖成層も塩宮神社裏の湖成層も、どちらも海抜が180m前後になる。湖の水面から湖底の地層まで10m前後の深さがあったとすると、図のような大きさの古梅田湖になることが推定できる。この大きさは、現在の桐生川ダムのおよそ2倍になる。
古梅田湖の成因については、この湖成層に含まれている砂鉄層が物語っている。あれほど大量の砂鉄層が湖成層に含まれているのは、砂鉄を成分として多量に含む軽石や火山灰がその成因に関与している、と考えられる。おそらく6万年前頃、赤城火山の相つぐ大噴火に自信でも関係して、桐生川が堰止められて湖ができたのではないだろうか。
3塩宮神社と砂鉄
塩宮神社裏で地層の表層が剥離して、古梅田湖の地層がはっきり露出した。露頭の一部に砂鉄層も含まれている。湖を挟んで高沢と、対岸に位置する塩宮神社裏との二カ所に湖成層が確認できたので、古梅田湖が存在したことが明確となった。
古代では、砂鉄等の採掘跡地には祠を建て祀っておくことがよくある。塩宮神社は、削られた地形に建てられている。おそらく、塩宮神社も砂鉄を採取したために地形が平らになっていた場所に建てられたのではないか、と考えられる。
『桐生市史別巻』(1971年)によると、塩宮神社が創建されたのは永禄元年(1558年)と記されている。おそらく、八世紀後半から九世紀前半頃に砂鉄が採掘され、その採掘後が祀られていたのを、数百年も経て、何の祠か忘れられた頃の永禄元年に、塩宮神社に置き換えられたのではないだろうか。
4塩宮神社砂鉄採掘跡
古代菱地域が鉄生産の里だったことは、製鉄遺跡の多いことからも知られていた。しかし、桐生川左岸の菱地域からは、砂鉄の供給地が発見されていなかった。とりあえずは、他領地梅田の高沢から菱地域へ砂鉄を運んでいたと考えていた。しかし、採掘権や税などから、当時は他領地からの搬入は難しかったはずである。特に鉄は、当時その地域の最重要資源であったはずである。必ずや菱地域にも砂鉄の供給地があるものと考えていた。
塩宮神社周辺の湖成層も、忠霊塔下と同様にかつては広範囲に分布していた、と考えられる。しかし、現地形を見ると、かなり掘削された地形をしている。湖成層の部分がなくなっているのだ。これは砂鉄採掘のため掘削されたのであろう。この採掘跡の現在の山際は塩宮神社を建てた小島家代々の墓地になっている。
5鉄穴流し跡とトイクチ地名
トイクチ(樋口)の地名は、島田一郎著『桐生市地名考』(2000年)から知っていた。何か意味のある地名だと思っていた。その地名が砂鉄層の近くにある、と知ってすぐ謎が解けた。
トイクチとは、鉄穴(かんな)流しのことで、砂鉄を比重選鉱するのに、“樋”を使って水を流した場所のことだ、と考えた。砂鉄層といっても、ほとんどが不純物だから、採掘地の近くで砂鉄だけを選鉱してから製鉄所に運ぶ方が、効率は良いはずだ。したがって、砂鉄採掘地の近くで選鉱したはずである。
トイクチと呼ばれるのはごく狭い地域だったので、現地へ行ってすぐに鉄穴流し跡は発見できた。砂鉄採掘跡地のすぐ南、小さな沢に堤が6mほどの溜め池があった。満水になれば、水深1mほどだろう。この池は、沢の流水量が少ないので、鉄穴流しで使うときまで水を溜めて置いたものであろう。
池の下は、まず20mほどの斜面があって、続いて1段目の平坦地が5mあり、また9m斜面になり、2段目の平坦地になる。1段目の平坦地は幅約10m、2段目の平坦地は幅約14mでやや斜面になっている。おそらく、この池下の斜面を利用して樋に水と砂鉄層を流し、砂鉄と不純物を比重の違いによって選鉱したのであろう。これがトイクチ(樋口)地名の由来であろう。
塩宮神社総代で、近くにお住まいの小島達也氏の話では、この池は昔から何にも使われていない、何のための池だかわからなかった。ただ、子供の頃には魚がいてよく釣りをした、とのことである。ただし、池の堤には最近人の手が加えられていて、灌漑用水にでも使われていた様でもある。
塩宮神社の東に接する“朝日沢”の沢名も謎めいた名である。なぜこの沢だけが朝日に関係するのか。やはり砂鉄に関係した名ではないだろうか。おそらく、アナシ(穴師)沢がアサヒ沢に代わったのではないか。穴師とは、砂鉄採掘者の古代の呼び名である。この沢に砂鉄採掘者の住居があったかも知れない。時が経て、砂鉄のことは忘れられ、アナシの意味もわからなくなり、アサヒ沢になったのではないだろうか。
6おわりに
昨年、拙著「桐生史苑」第45号(2006年)『古代の菱は鉄の里…地名から菱の語源と歴史を探る』で、伝承された地名から古代の歴史を探ることが可能である、と予測した。今回その手法が活用できた。伝承されたトイクチの地名を作業仮説として、実際に現地に行って砂鉄採掘跡と鉄穴流し跡と考えられる痕跡を発見することができた。特に、鉄穴流し跡は貴重な遺跡だと考えられるので、保存して後世へ伝えたいものである。

現在の古梅田湖の湖底(茂倉の山から) 古梅田湖の地層(塩宮神社裏) 鉄穴流し跡のトイクチ池


「地学観察ハイキング」2007年3月25日(日)午前10時(集合)〜午後3時(解散)集合・解散は菱町5丁目塩之宮神社 昼食持参 約5㎞歩く実施

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