越後駒ヶ岳

増田 宏 


 数多い駒ヶ岳の中でも山容で群を抜いているのは甲斐駒ヶ岳と越後駒ヶ岳(2003㍍)だ。越後駒ヶ岳は八海山・中ノ岳とともに越後平野から二千メートル近い高度差で聳え立っている。八海山は昔から山岳信仰で有名であるが、最近は深田百名山に選ばれている駒ヶ岳の方が登山者に知られている。当時、知名度に捉われずに三山の代表として深田久弥が駒ヶ岳を選んだのはさすがだと思う。以前は魚沼三山と呼ばれていたが、近年は越後三山と呼ばれている。魚沼郡を代表する山であるが、越後を代表する山ではないので越後三山という呼び名には違和感がある。ただし、月山を盟主とする出羽三山など同類の呼び名もある。深田百名山では魚沼駒ヶ岳となっている。


越後駒ヶ岳概念図

 私が初めてこの山に登ったのは四十年近く前の高校生の時で、夏休みに一人で枝折峠から登り、中ノ岳を経て八海山へ縦走した。駒ヶ岳までは登山者が多かったが、縦走路に向かったのはほかに一人だけだった。縦走路は灌木に覆われて風当たりが悪く、蒸し暑かった。特に駒ヶ岳と中ノ岳間の檜廊下は曲がりくねった針葉樹を跨いだり潜ったり、暑さで苦闘を強いられた。この日は中ノ岳の避難小屋に泊まったが、同宿者は1人だけだった。台風が近づいてその晩は風雨が強く心細い思いをした。翌日になって雨が止んだので同宿した人と2人で強風の中を八海山へ縦走し、最短路の新開道を下山した。この時は持参した水を避難小屋で殆ど使い切ってしまい、水のない苦しい縦走だった。その後、駒ヶ岳には雪のある時期に何回か登ったが、もっぱら駒ノ湯から小倉山経由の道を登下降した。
 最も苦労したのは年末の山行だった。寡雪の年だったが、前日に降雪があったため踏跡がなく、大湯温泉から駒ノ湯まで4時間を要した。小倉尾根に取り付いたものの、2人でのラッセルは捗らず、2日目にやっと小倉山に着くありさまだった。3日目に山頂を目指したが、上部で視界がなくなってしまった。山頂付近は地形が複雑なので下山が難しいと判断し、駒の小屋手前で引き返した。厳冬期の駒ヶ岳に少人数では全く歯が立たないことを思い知らされた山行だった。その後5月の連休に一人で大湯温泉から小倉山経由で駒の小屋に登り、翌日中ノ岳に縦走した。1人ではオカメノゾキの通過が不安なので八海山への縦走をやめて丹後山から十字峡に下った。駒ヶ岳は大勢の登山者で賑わっていたが、昔ながらにバスで来て大湯温泉から歩いたのは私1人だけだった。
 駒ヶ岳にはもう一つ水無渓谷からの登路がある。冬期の膨大な積雪が急峻な山肌を滑り落ち、デブリとなって谷底を埋め、夏でも水無川は夥しい残雪に覆われている。小倉山経由の登路からはゆったりした雄大な山容だが、こちら側からの駒ヶ岳は大峭壁がそそり立ち、近寄り難い山容をしている。林道終点のすぐ先で大雪橋を渡ってモチガハナ沢に出て、吊り橋で沢を渡って尾根に取り付く。急な尾根なので一気に高度を上げる。三合目の力水はブナの巨木があってひと休みするのには最適な場所だが、地名に反して水は得られない。長く辛い登りを続けると七合目で展望が開ける。大木の根が階段状になった急な登りを終えるとグシガハナに出る。ここからは緩い尾根になり、夏でも山頂付近に大きな雪田が残っている。
 近年、八海山から駒ヶ岳まで三十数年ぶりに仲間2人と三山を縦走した。車を大倉の里宮に置き、八海山から駒ヶ岳に縦走し、水無渓谷の道を周回した。大日岳の危険な鎖場には梯子が付けられ、緊張感が薄らいだ。オカメノゾキも初めて通った高校生の時の迫力を感じなかった。八海山は賑わっていたが、中ノ岳に向かったのは私たちだけだった。現在は日帰り登山が主流になり、三山掛けを行う人は殆どいない。その日は中ノ岳の小屋に泊まり、翌日、駒ヶ岳から水無渓谷に下山したが、初秋にもかかわらず大雪橋が残っていた。水無渓谷から屹立する駒ヶ岳の偉容は相変わらず凄い。
 駒ヶ岳を巡る渓谷は水無川・佐梨川・北ノ岐川水系であるが、いずれも険谷で私1人の実力では手が付けられないものばかりだ。同行する仲間がおらず、今まで一度も訪れる機会がなかったのは残念である。


越後平野から駒ヶ岳

八海山から駒ヶ岳

中ノ岳

八海山

春の駒ヶ岳(小倉尾根から)

山頂から駒の小屋への下り(新雪期)

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